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    徳川を守れ!
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    新しく強い日本を作ってやる
    日本の夜明け

鳥羽伏見の戦い


明治の幕開けを象徴する『鳥羽・伏見の戦い』を紹介してみたいと思います。成立したばかりの明治政府と徳川の旧幕府勢力が戦った『戊辰戦争』の一番初めの武力衝突が、この『鳥羽・伏見の戦い』ですね。

場所的には、名の通り『鳥羽・伏見』なんですが、坂本龍馬が襲撃を受けた『寺田屋』(入浴中に気付いたお龍さんは、裸のまま2階の龍馬に知らせました)がある、あの周辺といったほうが分かりやすいでしょうか?実際、私自身、幕末に興味を持って最初に行ったのが『寺田屋』でしたので、伏見といえばソコかな…と。

それにしても、京都って思いがけない形状をしてると感じませんか?私が関西人でないから、馴染みが薄いだけなんでしょうかね?

京都の範囲

斜めだし、意外にも日本海に面してるし…。この戦いの伏見区までもが京都市とは思わなかったですよ(京都市って、京都駅北の中心市街地だけかと…)。

江戸時代末期


まずは『鳥羽・伏見の戦い』に至るまでの経緯をみていきましょう。蒸気船が作られるようになって日本近海にも出現し鎖国を貫いていた江戸幕府が開国することになる、そんな時期…。ペリーが来航した後の頃です。

財政改革に成功して経済力をつけた有力諸藩は、外国との条約を独自締結した幕府に向かって堂々と異議をとなえ始めます。そういう藩の中には「武力で外国を打ち払え!」という意見をもつ過激な『攘夷論』を主張するものも現れ、次第に世の中は混乱…。天皇を拠り所とした彼らは『尊王攘夷派』となり、後に幕府に対抗する立場になっていくのでした。

当時の大老は、そんな思想家達を弾圧(松下村塾の吉田松陰などは、この時に処刑)しますが、逆に桜田門外で『尊王攘夷』発祥の地「水戸」の脱藩浪人に殺害されてしまいます。
鳥羽伏見の戦い
この事件で、幕府の権威は著しく失墜。国内の不安が高まるにつれ、天皇の有らせられる京都へと争いの舞台は移っていくのです。

ここらからは『会津戦争』の記事でも紹介したのですが…。幕府は『京都守護職』に会津藩主を任命し、尊王攘夷派を徹底的に取り締まります。あの新選組が会津の配下になったのは、この時からですね。
鳥羽伏見の戦い
そして、当時、京都で暗躍していた長州藩を『八月十八日の政変』と『禁門の変』で駆逐することに成功。ただ…。こうして会津藩が京都で熱心に任務を果たせば果たすほど、改革へと突き進む潮流と逆行していくことになるわけで…。

その後、長州は『下関戦争』『第一次長州征伐』と没落の一途をたどるのですが、薩長同盟をきっかけに不死鳥のごとくよみがえってきます。幕府は、続けて第二次長州征伐を仕掛けるも、軍備を近代化した長州に対抗できず敗北。この負け戦により幕府の威信は更に低下し、幕藩体制の限界を全国に露呈してしまいました。

一方、同盟を結んだ薩摩も『公武合体策』から『倒幕』へと舵を切り、長州と足並みを揃えます。勢いをつけた薩長との衝突を避けたい幕府は『大政奉還』を実施して天皇に政権を返上(その天皇のもとで徳川主体の政治を行っていこうという作戦)し大坂城に退去。これは、倒幕派にとっての倒すべき幕府が無くなってしまったということですね。武力での解決を企てる薩摩藩は、旧幕府に攻撃を仕掛けさせようと江戸での挑発行為を繰り返し…。それに乗ってしまって始まったのが『戊辰戦争』という流れです。

戦い初日


歴史的にみると、この『鳥羽・伏見の戦い』は新政府 vs 旧幕府の対戦となってますが、攻撃を仕掛けた旧幕府からすると当初は薩摩に対する抗議という意味合いのものでした。薩摩藩が江戸で起こした強盗や放火に対する「不服申し立て」ですね。依然として徳川の影響力は大きかったので「京への道のりは、薩摩が道をあけてくれるだろう」と大多数が思っていたようで…。本気で徳川幕府をつぶそうとしていた薩摩にとってそういう意識の違いは、まさに好都合だったといえます。数で圧倒して上京しようとする旧幕府・会津・桑名・新選組・京都見廻組など総勢15000名。対して、「必ず倒幕を達成する」と闘志を燃やす銃武装で組織統一した薩摩・長州の5000名、という構図で戦いは動き出しました。

旧幕府軍は、二手に分かれて京都に向けて進軍します(もちろん、鳥羽と伏見です)。初日の午前に、両者は鳥羽街道の小枝橋付近で対峙。街道の通行を阻む薩摩は「京都の許可が下りるまで待つように」と返答、しばらく押し問答が繰り返されました(この間に薩摩藩側は、戦いの準備を周到に着々と進めていたのです)。夕方、待ちきれず強行突破しようとした隊列に対して、薩摩の銃兵と大砲が一斉射撃を浴びせます。慌てふためく旧幕府軍の大混乱とともに『鳥羽・伏見の戦い』は始まったのでした。この時、旧幕府軍の歩兵隊は、銃に弾丸を込めていなかったようで、こういうところにも両者の立ち位置の違いが読み取れますよね。

武器装備についてはどちらも大差なかったようです(まぁ新選組などは刀主体でしょうが…)。ただ、薩摩軍はその銃器を有効に使えるように洋式軍隊として訓練を重ねていたので、戦術もなく縦隊のまま行軍する旧幕府軍なんかは格好の標的だったでしょうね。そもそも、弾を装填していない時点で、勝負にはならないのですが…。
鳥羽伏見の戦い
一方、伏見方面は、鳥羽での銃声を聞いて戦闘が開始されました(夜中まで戦いは続きます)。伏見奉行所から会津藩兵や新選組の土方歳三率いる部隊が出撃し、斬り込み攻撃を仕掛けますが…。薩摩側は、高台に設置した砲台で旧幕府の本陣の奉行所を狙い弾薬庫を炎上させ、さらにその炎を照明として猛烈な銃撃を加えてきます。旧幕府軍はこの攻撃に耐えきれず退却。こうして初日は薩摩側の圧勝で終了するのでした。

ちなみに、京都の東の拠点「大津」でも動きがありました。実は、朝廷からの派遣命令に応えたのは、この時点では大村藩の50名だけだったとか…。この守りが薄い「大津」を伊勢方面からの旧幕府軍がキチンと攻めていれば、戦況はガラリと変わったでしょうね(旧幕府側は、50名ではなく新政府軍が集結していると誤認したようです)。

戦い2日目


この日、鳥羽方面では旧幕府軍が一時盛り返すのですが、すぐに新政府軍の反撃をうけてしまいます。結局、狭い路地が碁盤の目のように張り巡らされた京都の町並みでは、旧幕府軍の「数の利」は生かせず各々に戦うしかなかったからだそうです。反対に、新政府軍は、京都の町をよく知っていて「地の利」があったみたい…。

…で、いよいよ出ますよ『錦の御旗』!前日開かれた朝廷での緊急会議で「薩摩と旧幕府の私闘」という見解を押し退けて「朝廷方の軍である我々には、錦旗が必要である」との決定がされていました。実際に前線で『錦の御旗』が掲げられると、薩摩は官軍となり旧幕府軍は天皇に歯向かう賊軍という立場が決定付けられます。伏見では土佐藩が新政府側に加入し、この錦旗の効果もあって諸藩の兵も官軍である薩長側に合流を始めます。また、これは、旧幕府軍の士気を下げるばかりか、佐幕派諸藩を動揺させ新政府と戦わせないようにするという影響も与えたのでした。

戦い3日目


一進一退の乱戦の中、苦しい旧幕府軍は老中である淀藩を頼って淀城へ向かいます(その老中は不在でしたが…)。佐幕派である淀藩でも、やはり官軍と戦うことには消極的になっていました。まさに『錦の御旗』の力、恐るべし!淀藩に入場を拒否された旧幕府軍は、しかたなく更に後退するのでした。

新選組は、この戦いで隊士の3分の1を失っています。相手は、銃剣での組織だった西洋式近接戦闘へと戦い方を進化させていました。土方歳三の言うように「刀の時代は終わった」のでしょうね。
鳥羽伏見の戦い
武士にあこがれた人達の集まりが新選組だったので、武士の象徴である刀に力がなくなるのは寂しくもあったと思われます。

戦い4日目


戦場は、京都の外れの「橋本」(今でいう大阪との県境)へと移ります。そこに陣を張る旧幕府軍は、地形的に有利な迎え撃つ側にありました。…が、山崎を守備する津藩が官軍となり、西側の淀川対岸からの砲撃を受けて総崩れ、最後の大坂へと逃げるしかありませんでした。

新政府旧幕府新政府旧幕府旧幕府官軍

なんかボロボロの旧幕府軍ですが、この時点でもまだ、総兵力で旧幕府軍が上回っていたのは確かです。でも、大坂城にいた『徳川慶喜』は徹底抗戦を呼びかけた後、なぜか密かに幕府の軍艦で江戸に退却してしまうのですよね。この意味不明な総大将の逃亡で、旧幕府軍は戦意喪失。皆、それぞれの場所へ帰っていくのでした。

この、逃げた理由は謎のままなのですが、もともと慶喜は水戸藩出身ですし尊王思想を持っていたのだと思います(母親は皇族ですし…)。最後の徹底抗戦の檄も、周りの雰囲気で言わされただけなんじゃないかな?そもそも、この『鳥羽・伏見の戦い』自体も「やるなら、勝手にやれ」みたいに始まったようですよ。途中で、対薩摩が、対天皇にすり替わってしまって、慶喜としては当然逆らうことはできず以降恭順を誓ったのかと…。でも、そうして慶喜自身が対抗する姿勢を見せなかったことが、日本の政権交代を比較的スムーズに終わらせれたポイントだったのかなと思います。
鳥羽伏見の戦い
この後、『鳥羽・伏見の戦い』で旧幕府側についていた藩も含め、おおくの佐幕派の藩が新政府に降伏し協力を誓いました。官軍は東進し、江戸無血開城を達成。たった4日間の『鳥羽・伏見の戦い』でしたが、旧幕府軍の初戦敗北はその後『上野』『会津』『箱館』と1年半にも及ぶ『戊辰戦争』の苦難を暗示するものとなってしまったのでした。
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