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応仁の乱


今まで「手を出しちゃいけない」と避けてきた、室町時代の『応仁の乱』。人間関係が非常に入り組んでいるので纏めるのを躊躇してきましたが、やはり日本史の中で外せない内乱でもあるので書かないわけにはいかないですよね?一世むなしい(1467年)と、皆が知ってる戦いですし…。

私の覚えたこととしては「11年にも渡る長い争い」「戦国時代が始まるキッカケとなった地方の大名をも巻き込んだ内戦」くらいです(あ、いや、もう少しは分かるかな)。とにかく、何がどう関わってきて、どうしてこんな事になってしまったのかを、ひとつひとつ紐解いていけたらいいなと思っています。

当時の京都は、何もかもが焼き尽くされ著しく荒廃(餓死者が道端に溢れているイメージがあります)。でもそれって単に「誰かと誰かが戦っていたから」だけではない入り組んだ背景があるはずなので、そういう時代の流れみたいなトコまで解説できれば…という感じです(だいたいが、何で戦い続けていたのかがハッキリしないんですよね)。それでは、よろしくお願いします。

足利将軍


この時の将軍は、8代目の『足利義政』。室町幕府を開いた『尊氏』は別格として、金閣建立(北山文化)で有名な『義満』に次ぐくらい知られてはいます。後にも登場しますが、足利家は初代以外『義』で始まる名前なので、ソコは区別しやすいかも…。義政は、華麗とは真逆な「わび・さび」といった日本人の根本に宿る美意識(東山文化)を確立させました(代表的なのが銀閣・石庭・能・茶道など)。
応仁の乱
ただこの人、文化人ではあるものの、政治・経済には無頓着で他人任せ…。趣味にお金を掛け過ぎて財政難を招いたりと、ちょっとどうしようもない人だったりします。

まぁ、将軍職に就いた(父が暗殺され、兄は早逝)のが幼少期(8歳)という事情があって、回りの大人に頼らずにはいられなかったんですが…。そうした牛耳られていた経緯もあり、将軍といっても江戸幕府の徳川の様な絶対的権力を所持していた訳ではないんですよね。そもそも、強権的な態度をとれば、父の様に殺されかねませんし…。

そんな権力基盤が小さく悪くなっていた時期の出来事です。あと、中央政府の実態として、連合政権的な性格で室町幕府が運営されていた欠点も持ち合わせていて…。今の時代もそうなんですが、皆で係わり合って何かやろうとしても、お互い考える方向性が違ってなかなか上手くいかなかったりするものです。
応仁の乱
組織のトップ、足利将軍を補佐する『管領』の役職には、3つの家(細川・畠山・斯波)の一つが就任。それと、京都の警備や訴訟を担当する『侍所所司』というポスト(山名・赤松・京極・一色)有り。これら『三管四職』と言われる有力大名達が、自分勝手な権力争いや足の引っ張り合いをして周りを巻き込んでいった結果がこの『応仁の乱』ですね。ココで、中心人物である『細川勝元』『山名宗全』二人の実力者を覚えておいてください。

戦乱の元となる極め付けとして、将軍の跡継ぎ問題もありました。嫡子に恵まれず早すぎる隠居願望(趣味に没頭したかったのか?)を持つ将軍『義政』は、仏門に入っていた弟の『義視』を後継者に指名します(細川勝元が後見人)。断られ続けるも何とか正式に僧侶から還俗させた途端に、あっさり将軍世嗣『義尚』が誕生!えっ!?!母『日野富子』は生まれた息子を将軍にしたくて、山名宗全に後見人を依頼。対立関係のできあがりですよ。

始まり


応仁の乱は、畠山家いとこ同士の家督争いから巻き起こります。No.1の重鎮へと成り上がっていた山名宗全を陥れようと、細川勝元がこの紛争を利用して大軍を差し向けます(本を正せば、同じ方法を使っただけなのですが…)。幕府内での勢力を伸ばそうとする二人の野心は、代理戦争の形へと発展。各地の大名は自分が支持する側に加担するため京都に馳せ参じ、東軍(細川)西軍(山名)に分かれ戦い始めました。なだれ込んだ27万の兵は、こうしてそれぞれの立場で絡み合っていきます。
応仁の乱
この時点で、将軍家を取り込んでいた(首を突っ込んだ義政の判断ミスも巻き込まれる要素)東軍は、反乱軍という形の西軍に対し優位な立場をとっていました。しかし、将軍家後継者である『義尚派・義視派』の派閥争いが東軍内でエスカレート…。そんな対立に居たたまれなくなった義視が、なんと逃げ出して西軍に匿ってもらうことに!この事態が西軍に正当性を与え、二つの幕府が並立する結果を生んでしまうのでした。

でも待ってください。西軍の山名宗全は、弟の義視ではなく、義尚を支持してたのでは?そこは不自然なのですが、東軍の細川勝元が相手陣営と義尚派との繋がりを無くそうとして故意に義視を追い出した(送り込んだ)と言われています。いやもう、なんだか、一層混沌としてきました…。

寝返りなども相次ぎ、京都では20を越える大名が対戦相手を理解せずに戦っていたとか…。共に譲らない両陣営は、味方を増やすため、家柄である守護をも増やして参戦させます(代表的なところだと、越前朝倉氏が守護大名に昇格してますね)。こうした大勢のしがらみが、応仁の乱を長引かせる原因となっていくのでした。

拡散


戦火は京都だけでなく、地方にも拡散。在京する守護に代わり領国の留守を預かる家臣が力を伸ばす『下剋上』が発生し、下記地図の様な統治はこの後激変していく事になります。

細川畠山畠山赤松細川京極武田細川細川細川細川細川細川山名京極武田山名畠山畠山斯波土岐斯波斯波六角一色一色河野山名山名山名山名大内大内大内大内大内

絶対的価値観を誇示していた今までの『家柄』が『実力・人気』といった新しい評価基準に置き換えられていきます。こうなるともう、守護が京都で幕政に参加する室町幕府の体系は形骸化。将軍の権威は失墜し、戦いを仲裁する立場の義政は成すすべもなく『宴・庭造り』へと現実逃避…。

事態は更に悪化!消耗した両陣営は、次第になりふり構わない行動をとる様になります。『足軽』という、度重なる飢饉で武装していた一揆衆の集団を、自分達の傭兵として雇い…。彼らはゲリラとして活躍すると、京都の市街地を放火し寺や富裕層に対し強奪を始めました。
応仁の乱
火の海に包まれた都からは、歴史的資料や貴重な文化財が消失。また、物だけでなく、荘園制度の解体など既得権力の仕組みも根こそぎ崩壊していきます。この頃に進展した貨幣経済も相まって、抽象的な神仏中心の時代から現実味を持ったリアル(シビア)な時代へと大変革。晩年の一休さんが人間臭い生き方で民衆の共感を得たのも、こういった実情からだったりするんですよね。

貧窮した公家などの貴族は京都を離れ、疎開した地方に伝統や知識をもたらしました。文化の拡散と同時に、荘園に代わる『村・町』といった自治組織が発達し、地方分権が一気に加速。権威・財政を疲弊させた守護を押しのけ、家臣や国人が領主となる『戦国大名』がココに芽生えてくるのです。

停滞


複雑に入り組んだ武将達の事情は「あちらを立てればこちらが立たず」状態となり、誰も打開できない戦況へと突入します。争いを始めた張本人達でも解決できず、細川勝元は出家、山名宗全は切腹未遂までも起こしているほど…。『応仁の乱』勃発から6年、二人が同時期に亡くなってもなお、戦いは続きました。

相変わらず芸術に没頭していた義政は、将軍職を義尚に譲って隠居。当然、皆が納得できる施策など出せるはずもなく、知らんぷりのまま…。一方、妻の日野富子は財テクに手を染め、金貸しや米の備蓄転売で儲ける金の亡者と成り果てます。この資金が息子の政権保持に結びつき、幕府の指導者としての影響力を高めました。

いつまでも戦闘が続く11年目、突如『応仁の乱』は終わりを迎えます。それは何とお金の力…。西軍主力の守護大名であった大内氏が、領国平定の為、富子に賄賂を贈り(自らの地位・身分を確約)京都を後にします。これを機に、一斉に西軍が帰国し、和睦という形で終戦となるのでした。
応仁の乱
でも、あれだけ相互の面目や思惑での利害関係があったはずなのに、最後が金ってのにはビックリですよね(上記写真は五円玉ですが…)。まぁ現在でも、会社の方向性が決定付けられるのは株主(資本)の力ですから、おかしな仕組みというわけではないんでしょうけど…(むしろ合理的かな)。

和風住宅の基本となる書院(畳を敷き詰めた日本間)を造設し、その銀閣に移り住んだ将軍義政は、地味ながら奥深い日本の美的センスの原型を残して55歳で亡くなりました。室町幕府の権威はすでに衰退していたので、ここからは各地で秩序を挽回した武将が台頭する戦国時代の幕開けとなります。

さて、いかがだったでしょうか?応仁の乱。布陣図とかないので、このサイトの強みでもある見た目を生かす事ができず、文章ばかりになってしまいました。なんだか、自分が復習するための記事になった様な気がします…(すみません)。
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