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  • 豊臣秀吉 50%
  • 北条氏 50%
  • 豊臣秀吉1度だけ天下を取らせる
    誰にも止められないでしょ
    全国制覇するためには仕方ない
  • 北条の時代はまだ終わらない!!
    最後に勝つのは北条だ!!
    秀吉なんかに負けるな!

小田原征伐


『豊臣秀吉』と『北条氏』が戦った『小田原征伐』(『秀吉の小田原攻め』と言った方が一般的かな?)を紹介してみたいと思います。四国/九州と西国を平定してきた秀吉にとって、残すやっつけるべき相手は東国大大名の『北条氏』。難攻不落と言われる『小田原城』をどう攻略すのか?見逃せないですね。私の中では『家康が堀を埋めさせた大坂城』『幕末の西郷さんさえも落とせなかった熊本城』と並ぶ3本の指に入る程の堅固な城ですよ、『小田原城』は!

ちなみに、このときの北条は初の戦国大名である『北条早雲』の流れをくむ『後北条氏』です。…ってことは『前北条氏』がある?ん?と、一瞬考えてしまいましたが、あの鎌倉幕府で執権職をやってた一族が前の『北条氏』でした。こちらは特に『前』を付けることは無く、識別したいときには戦国時代の北条の方を『後北条氏』とするようです(前の方を区分するときは『執権北条氏』『鎌倉北条氏』と呼びます)。
小田原征伐
ただ、この記事の中では、鎌倉時代の人物(北条政子さんとか)は出てこないので、『後』は無しで統一していきます。ちなみに『北条早雲』の名字は『伊勢』だったとか…(『執権北条氏』にあやかりたくて、子の『氏綱』から改姓)。

勢力分布


優先していた西国計略の島津攻めで九州征伐が終わり、秀吉の次の目標はついに東国平定と移りました。主な大名は、関東の『北条氏』と奥州の『伊達氏』。まずは『徳川家康』の東に居座る『北条氏』がターゲットです。

当時の『北条氏』当主は『氏直』。まだまだ実権を握り続ける父親の『氏政』が秀吉に対しては強硬派だったり、おじさんの『氏規』(家康とは今川人質時代に隣同士)が穏健派だったりと、北条の中でも意見が分かれていた様子で『氏直』自身は中間派でした。それにしても、みんな『氏』で始まる名前ばかり…(一族の一員であることを示す先祖代々継承される特定の漢字を、通字と言います)。

このエリアは、北条五代『早雲』-『氏綱』-『氏康』-『氏政』-『氏直』によって統治されてきたわけですが、周辺諸国との関係はその時代によって移り変わっていました。少し前の頃の『甲相駿三国同盟』が有名ですかね(小田原討伐とは関係ないんですが、図解にしてみました)。

武田北条今川武田北条今川上杉上杉織田

この同盟により、甲斐の『武田信玄』と共に対『上杉』を、また駿河の『今川義元』は対『織田』と侵攻方面を絞ることができたのですが、桶狭間の戦いで今川が敗れると提携は崩壊。その後『武田』も滅んで『織田信長』の後継者が『豊臣秀吉』になり小田原攻めと繋がっていきます。

周囲との結びつきもその時々で頻繁に入れ替わっていきましたが、開戦直前の『北条氏』は、独眼竜『伊達政宗』とは昔からの同盟関係でしたし駿河の『徳川家康』とは縁戚関係だったので、秀吉に対しても戦える!と思ったのかもしれません。

口火


天下を手中に治めつつある秀吉にしてみれば「敵対するのであればやる!」のが当然でしょうね。家康や毛利のように服従という態度を取れば、有力大名として生き延びることもできたんでしょうが、北条親子は京都聚楽第への上洛要請を拒否します!

時代を読む力が無いですよ『氏政』。今までに上杉や武田を小田原城で打ち払ってきたと言っても、結局実際に秀吉が集めた軍勢の数は桁違いの20万人なんだから戦う前に想像できそうなものだけど…(20万人集めれるのって、他には後の『大坂の陣』の家康しかいないです)。「百姓から昇り詰めた成り上がり者には従いたくない」という気持ちがあったようですが、そんな感情的な判断は抑え込んで現実を直視しないと…。

次女を『氏直』に嫁がせている家康としては、考えを改めるよう『北条氏』側と交渉継続。そんな中、秀吉が真田領と決めた名胡桃城を北条家臣が占領。秀吉に逆らう反逆行為と見なされ、とうとう北条討伐が決定されてしまいます。家康は、北条との仲介を断念して秀吉に加勢することを表明。北条にとって後の頼みは『伊達政宗』だけとなりました。

戦況


秀吉と対戦することになった北条は、相手の戦略や展開を予想して戦闘体制を整えますが、多勢に無勢でした(北条側も8万人と決して少ない数ではないのですが…)。

小田原の西方、箱根山方面の守りの要であるはずの山中城が、わずか数時間で陥落。その後も、北条方の数か所の拠点以外は次々と落城。秀吉軍の勢いを察知すると本陣の小田原城へと兵をまとめ退出して行ったので、残された支城の兵力は貧弱だったようです。秀吉先鋒部隊は、数日後には小田原城へ到達!
小田原征伐
踏みとどまったのは、前述した『北条氏規(穏健派)』が率いる『韮山城』と、『石田三成』が水攻めを行った『忍城』くらい…。『韮山城』は3か月近く耐えた後、家康に説得させられて(元々非開戦派)開城。最後まで持ち堪えたのは『忍城』だけで、戦下手な三成が行った水攻めの失敗もありとことんまで抵抗し続けています。

秀吉の私戦禁止令を無視して領地を拡大してきた『伊達政宗』が、同盟を結んでいる北条側に付いたのかどうか?さすがの政宗も北条と同じく討伐されるのはかなわんと、秀吉のもとに白装束(死に装束)をまとい参陣します(杖で首をつつかれ「もう少し遅かったら危なかったな」と忠告されるあの名シーンですね)。

これで、北条側に付く援軍は誰も居ない状態となり、大量の物資でいつまでも包囲し続けることができる秀吉軍の勝利が確実なものとなりました。実際に秀吉は、妻女を呼んで大茶会を開いたり温泉に出かけたりと楽勝ムード全開。しかも、石垣山に一夜で城を築いて(完成した後で周囲の木を切り倒したのですが…)、北条方をビビらせちゃうし…。

氏政氏直北条北条北条北条北条北条北条北条井伊直政大久保忠世榊原康政酒井忠次徳川家康黒田官兵衛豊臣秀勝豊臣秀次宇喜多秀家長谷川秀一堀秀治堀秀政池田輝政織田信雄蒲生氏郷細川忠興豊臣秀吉九鬼嘉隆加藤嘉明脇坂安治長宗我部元親毛利水軍

「降伏するか?徹底抗戦するか?どうするの?」という結論の出ない会議(『小田原評定』という意味は、ココからきています)を繰り返した『北条氏』。最後にはとうとう降伏を選択、小田原城での戦闘はほとんど無く秀吉の勝ちが確定。守りがどれほど強固で城を崩されていなくでも、条件が悪ければ明け渡すしかないんですね…。

『氏政』は切腹、『氏直』は高野山へ追放となり、戦国初大名『早雲』以来続いた『北条氏』はここで滅亡となりました。北条の領地は、秀吉の命により家康が引き受けることに。それは「故郷である三河を捨てて、関東へ転封しろ」という、家康を遠方に封じ込めようとする秀吉からの厳しい指示でした。でも、このことが江戸の町の誕生のきっかけとなり、今ある東京となるのです。
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