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小田原征伐 | 平将門の乱 |
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呪いの力
平将門の乱
皇居の真ん前、千代田区大手町の一等地にある『首塚』は知ってますか?高層ビルが立ち並ぶオフィス街の中で、異様なオーラを放つ一角がありまして…。私が20年前に行った時には、少し身ぶるいしましたね(今周辺は、再開発されているのかな?)。当時「興味半分で来たけど、呪われないかなぁ~」と、ちょっとビビってました。今回の記事は、その首の持ち主である『平将門』を掘り下げてみます。
年代は平安時代中期。討ち取られた平将門の首は、平安京に送られて晒し首とされました。首だけを台に載せて、3日間世間に見せつけるのを獄門というのですが、日本で最初に行われた獄門がこの将門らしいですね。
なんか、もう早くも怖いです!お化け屋敷でも映画でも、晒し首がある時点で薄気味悪いんですが、大抵そいつがニカッと笑ったりするんですよね。やはり将門の晒し首も、腐ることなく大きく目を見開き「斬られた私の体はどこだ!つないで、もう一度戦わせろ!」と叫び続けたとのことです(ひぇ~)。
しかも、3日後白く光ると、いきなり東国に飛び去っていきます。力尽き落下したのが皇居前のあの場所、そこに神田明神が創建されました。「かんだ(神田)」の語源は「からだ(体)」だったとか…。江戸時代に神田明神は移転しましたが、首塚だけはそのままの位置に今日まで残ったというわけです。この「首塚」「神田明神」を含めて将門に関係する神社「鳥越神社」「兜神社」「筑土八幡神社」「水稲荷神社」「鎧神社」をつなぎ合わせると、北斗七星の形になるみたいなので地図に印をつけて確かめてみましょう。江戸の町を守るため、徳川家康が将門の力を利用し北斗七星を型取って結界を張ったといわれてます。
鎧水稲荷筑土八幡兜鳥越首塚神田明神
どうでしょう?現実の北斗七星の並びは ↓ こんなふうです。ちょっと違いますよね。『神田明神』の位置がもう少し西寄りにずれていれば、似た感じにはなるかもしれません。北斗七星のそもそもの原型である『柄杓』ということであれば、結界の配置の方が近いとは思いますけど…。
怨霊
将門は、菅原道真・崇徳天皇と並ぶ『日本三大怨霊』のひとりです(三大怨霊ってモノ凄い言い回しだな!)。道真は平安時代初期、太宰府に左遷(この時の和歌「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は超有名)、崇徳天皇は平安時代末期、讃岐に流されています。ふたりは、先方の地で無念のうちに亡くなり、その後、自分を陥れた仇の連中を祟りました。崇徳天皇においては、実際生前に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と皇室を呪う言葉を自らの血で書き表しています。どちらの両者とも、黒い雲とともに雷で御殿を襲う恐ろしい姿で描写されていますね。ちなみに『崇(あが)める』と『祟(たた)る』は、真逆の意味なのに非常に似ている漢字で注意が必要です。名前に『祟』を間違えて使わないように!
まぁ、今でもまだ呪いとかの考えはあるくらいですからね(事実、首塚は取り壊されず残っていますし…)。理解不能な出来事が多い当時の人々にとっては、強大な霊魂の力は人間に災いを与えるものだと当然信じられていたわけです。
将門についても、関東での疫病の流行や天変地異の元凶をその祟りとされてきました。ただ、東国武士団が台頭する時代になると、その武士の登場(始まり)のキッカケとなった将門を、戦勝祈願の神として敬うようになっていきます。道真も天神様と呼ばれて崇拝されていますが、将門もまた怨霊のパワーからご加護をあやかる御霊信仰の対象となるのでした。
都市伝説
江戸の総鎮守として敬愛される将門も、明治時代になり天皇を頂点とする体制となると、朝廷に歯向かった立場であるゆえに冷遇されてしまいます。ここからの「信じる?信じない?」はあなた次第なのですが…。
徳川家康が江戸を守るべく作った結界は、新たな国鉄路線という鉄の結界で分断崩壊。東京は、関東大震災に見舞われてしまいます。被災後、首塚は掘り起こされ大蔵省の仮省庁となりますが、将門の呪いにより、大臣・幹部14人・建設関係者・職員が立て続けに亡くなるなどの深刻な事態に…(夢の中で落ち武者に殺され、そのまま変死してしまった方もいたそうです)。さらに、将門の死後千年目には、その大蔵省が落雷による火災で全焼。「首塚を粗末にしているから」という声が上がり、そこで鎮魂祭を行い石碑を建立し祟りを鎮めました。太平洋戦争後、またも首塚を潰そうとするブルドーザーが横転して作業員2名が犠牲になるという死亡事故が発生します。取り壊しを指示したGHQは計画を打ち切り、現在のようなビルの中にそのまま首塚が取り残される状況ができあがりました。
高度成長時代、隣接する銀行の首塚に面する部屋の行員が次々と病気にかかるということもあったので、周りのオフィスでは塚に対して管理職が尻を向けない机の配置にするなどの工夫をしているという噂もあります。また、首を斬られても舞い戻ってきたことにちなみ、どんなことがあっても帰ってこられるよう祈念を込めて、蛙(かえる)の置物が数多く供えられていますね。左遷先から元の部署に戻りたい方が、お参りをするらしいですよ。
坂東平氏
怨霊の話ばかりで進めましたが、この先は本来の戦いに至るまでの解説をしていきます(晒し首になるまでの経緯です)。
将門の祖先は、平安京に都を開いた桓武天皇ですね。そもそも武士の起源である平氏や源氏というのは『臣籍降下』といって、皇位継承の可能性がなくなった皇族に姓を与え放出した者たちの末裔です。桓武天皇なんかは、100名もの臣籍降下をしたといわれていて…(どれだけの子どもを産ませたんだよ?)。こうした財政を圧迫させる皇族は没落して地方に下るしかなく(嫡流でない皇子を出家させるやり方を始めるのは、もう少し後の年代から…)、そのまま土着し豪族や武士となり生きていくのでした。
将門の父親も、そんな者のひとり…。下総国に赴任し在職期間を終えても居座り続け、その地で勢力を維持しました。その息子の将門は、青年期に上京し12年間ほど藤原氏に宮仕えをしています。平家など武士の地位が高まるのは平安時代末期の源平合戦くらいからなので、まだまだ普通の役人みたいな地位だったんだろうなとは思いますね。後に対決することになる従兄弟の『平貞盛』も、同時期に都にいて官職について働いてます(将門のライバルなので、覚えておいてください)。参考までに、この人『平清盛』の祖先です(孫の孫の孫)。
私闘→内乱
父が亡くなり関東に戻ることになった将門に、一族との相続争いが待ち受けていました。父の所領をその兄弟達に横領されてしまい、将門は下総国豊田に本拠を構えることになります。しばらく経った後、待ち伏せを食らった合戦で逆に伯父(先ほど出てきた平貞盛の父)を討ち取り、次戦の叔父との争いにも大勝。ついには、平安京から呼び寄せられた貞盛との連合軍をも打ち破りました。また、本拠地を踏みにじられ妻子も捕らえられた時にはそれをも迎撃し、暴挙の現状を朝廷に訴えています(これを期に、守りやすい石井に本拠を移しました)。
将門の強さの秘密は、所領から産出される豊富な馬にありました。騎馬隊を駆使した戦を得意とし、さらに、乗馬したまま引き切れる反りを持った最初の日本刀を作らせた効果が大きかったそうです。平安時代中期以前の真っ直ぐな形(直刀と言います)からの、まさに剣を一変させる革新でした!
ここまでの将門としては、父親の領土を奪われたうえに襲い掛かってくる親族を追い払い、強いがために恨みを買うという何ともやるせない繰り返し。ただ、それはあくまでも平氏一族の私闘という位置付けだったのですが、関東での将門の存在感が増すにつれ次第に状況が変わってきてしまいます。
その引き金が、頼ってくる仲間をかくまい保護するという新たな問題。お願いされると断れない面倒見が良い性格なのでしょうね。国府からの仲間の引き渡し要求を拒否し戦いに勝利(この時、国司の証である印綬を没収)してしまったことで、朝廷に歯向かう反逆者となってしまいます。勢いに乗じ、いくつかの国府も占領…。背景には、横領や悪事でまみれた国司の腐敗した地方行政があり、その治安改善への期待を将門が一身に受けていたということがあります。
他の地域の国司達も恐れをなして逃げ出し関東全域を手中に収めることとなった将門は、自らを「新皇」と名乗り独立への新政権樹立を宣言。まさにココが絶頂期であり、その後は下降の一途をたどる運命が訪れます。
将門国香良正良兼貞盛藤原
父を殺され戦いに敗れたライバルである貞盛は、朝廷に告訴しつつ将門から逃げ回っていました。結局、5000の捜索軍からの脱出に成功した貞盛は、戦略家として知られる奥州藤原氏の先祖の力をかりて反撃を始めます。その連合軍の数は4000。逆に将門の軍は農作業のために帰郷してしまい、手元に残った兵は僅か1000でした(兵農分離は信長の時代からで、当時の兵士の90%は農民です)。
一時退散した将門から人心は離れていき、援軍も無いまま戦力は400にまで激減し本拠を攻められてしまいますが、それでも追い風で形勢有利となり勝利目前。…が、風向きが変わり飛んできた矢が額を打ち抜き、あっけなく将門は戦死してしまったそうです。たった2ヶ月の新政権だったとか…。
こうして、討ち取られた将門の首は平安京に運ばれて獄門となります。その首が飛んで戻ってきて怨霊となり、今では民のために立ち向かった英雄として崇められているのです。首塚を訪問したのも随分昔なので「もう一度ビビらず、勇気を出して会ってこようかな」と思ったりしています。
追記:首塚、再訪しお参りしてきました。今回は他の人もそこそこ居たからか、薄気味悪さは感じなかったですね。あと、江戸城跡地や皇居周りのいくつかの橋や門、楠木正成像を見たりと、ついでにあの辺りを探索できて良かったですよ。