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壇ノ浦の戦い | 厳島の戦い |
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- 諸行無常
邪魔するものはけちらしてやる
源氏に負けるな - 兄の仇
最後まで好きにはさせない
源氏の意地を見せてやれ
義経が好き
壇ノ浦の戦い
栄華を極めた『平家』が『源氏』に滅ぼされた『壇ノ浦の戦い』を記事にしてみたいと思います。年代としては、この戦いの幕切れが平安時代を終わらせて『源頼朝』が次の鎌倉時代を開こうとする、そんな頃。朝廷(天皇・貴族)→ 幕府(武士)の世の中へと様変わりする転換期にあたります。私自身、正直なところ戦国時代より前って勉強不足であまり分かってないんですが、この辺の『平家滅亡』やそれに伴う『源義経』の半生はよく知られた歴史なので何とかなりそうかなと…。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もついにはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ。
お馴染み『平家物語』の冒頭ですが、何だか切ない文章ですね。意味としては「世の中は変化していくものだから、今は栄えていてもやがて夢や塵みたいに無くなってしまうのだよ」という感じ。平家も活躍したのは、たったの20年程度でしたから…。この『諸行無常』ってのは、「すべてのものは常に変化し続け、変わらないものは無い」という仏教の大切な教えの一つですね。人はいつか必ず死ぬし、物だっていつかは壊れる。だから、生や物質(もちろんお金とか)に執着せず、また失ったときの悲しみにとらわれるのではなく受け入れて、そういった状況に対してどう感じてどうしようとするのか?が大事であると…。例えば、人間関係や自分自身だって変化してしまうからこそ、今できることを精一杯やろう(頑張った今が、その先に続く変化を良い方向へと導いてくれるだろう…)。そんな悟りみたいな摂理です。
『平家物語』より先に書かれた『方丈記』の冒頭にも、この無常観を言い表している有名な一説がありますね。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
コチラは、水の流れと泡に例えてますが、これまた哀愁が満ち溢れたフレーズですね。とにかく、こんなにも変化する社会の真っ只中にいるのだから、我々は『諸行無常』を胸に秘め、今をただひた向きに生きていくしかないのかな?と思います。これ以上の押し付けをこのまま書き綴っていくと説教臭くなってしまうので、この辺で止めておきますね。まだ『壇ノ浦の戦い』の話に入っていけてないですし…。
平家の繁栄
『平氏』の一つで『平清盛』に繋がる血筋の中央政権を牛耳った一族が『平家』です。『壇ノ浦の戦い』は平家が滅んだ出来事ですから、その前の大躍進とその平家を追いやった『源氏』に目を向けておきましょう。
まずは、大河ドラマにもなった『平清盛』(私は見てないですけど…)。一門の第一人者で、平家の絶頂期を築きあげた男です。棟梁として『保元・平治の乱』でライバル達を討ち倒し出世。国外との貿易で莫大な利益を生み出しつつ身内を天皇家に嫁がせた清盛は、全国のおよそ半分をも支配し独裁体制を作り上げました。
次に『源頼朝』、源氏の正統な血筋を受け継ぐ嫡流になります。この人のお父さんが、先ほどの『保元の乱』で清盛と味方同士でした。共に勝利するも恩賞の差に不満を抱いていた様子で、続く『平治の乱』でその清盛とは敵対します。若い頼朝(13歳)本人も出陣(鎧着て座ってただけです)するのですが、戦いに敗れてしまって逃亡のすえ捕らえられます。ただ、清盛の義母からの助命嘆願(「亡き息子に似ているから」との理由)で、伊豆への流刑で許されました。ここで生き延びたことが後に平家の討伐へと繋がっていくのですから、何とも皮肉な運命ではありますね。
そして、頼朝の弟『源義経』、実際に平家を滅ぼす張本人です。『平治の乱』では数え年2歳(牛若丸と名付けられています)。母親と共に逃げ、後に鞍馬寺 → 奥州平泉と転々としていきます。京都の五条大橋で武蔵坊弁慶と出会った話は、あまりにも有名ですよね。平泉に居るときに頼朝が挙兵したと聞き、すぐに駆けつけて兄との感動の対面を果たしました。そういえば、義経も大河ドラマやってましたね(またしても、見てないのですが…)。『保元の乱』で源平の両氏が武力介入してその実力を示すと、天皇や貴族が中心だった時代から武士の時代へと移り変わっていくことになりました。そして『平治の乱』で平清盛が源氏らを破り、その勝者の平家が中央政権に進出していったという流れです。
絶大な権力を握り貴族化していく清盛の平家一族、その弟が言い放った言葉が「平家にあらずんば人にあらず」。もう天狗になり過ぎて周りが見えてない状態、こうなってしまうと快進撃も終了…。次第に清盛に対する周囲の反発が表立ち、少しずつ歯車が狂い始めていきます。
150年前、『藤原道長』も同じように自らを誇示する「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」という横柄な歌を詠んでますね。娘達を次々と天皇に嫁がせ(長女『彰子』に仕えていたのが紫式部)「この世は自分の物で、足りないものは何も無い」と人生を謳歌していた藤原氏の勢いも、徐々に弱々しくなっていきます。時代は栄枯盛衰を繰り返すのですね。まさに『諸行無常』。清盛も、妻の妹と天皇の間に生まれた皇子に娘の徳子を嫁がせるなどして、朝廷と結び付いていきます。そして、生まれた子を3歳にして天皇に即位させ、皇族の地位や権威を独占して利用しようと画策。この天皇が『三種の神器』と共に入水した『安徳天皇』になります。
平家の衰退
衰退への発端は、当時院政を布いていた法皇の妻(清盛の妻とは姉妹)が亡くなったことにあります。調整役が居なくなり、法皇と清盛の対立が表面化。拠点としていた『福原(現在の神戸)』から大軍を連れて京都に入った清盛は、軍事独裁という形をとり法皇を幽閉させてしまいます。
そして、このとき、所領を没収された法皇の第三皇子が「打倒平家」を宣言して挙兵。計画は発覚しすぐに制圧されてしまうのですが、この号令が復讐に燃える源氏一族を一斉に武装蜂起させる引き金となりました。
清盛の独断で思い入れのある『福原遷都』を実現するも、兵を挙げた源氏の問題に取り組む為わずか半年で京都に戻らざるをえなくなります。東国で膨れ上がった頼朝率いる源氏勢力。対する『富士川の戦い』では、水鳥の羽音に驚いて逃げ帰るという大失態…。この敗北が他の地域の反発を誘発し、平家は滅亡への道を歩んでいくのです。寺社勢力も含め、各地で反乱勃発!更に、奈良へ派遣した部隊が寺や大仏を焼失させ『仏敵』の汚名を被るはめに…。平家がこんなピンチな状態に陥っているときに、よりにもよって清盛は熱病で死去!!
都落ち
清盛の後を継いだのは三男の『宗盛』でした。ただ残念なことに、この宗盛、他の兄弟より出来が悪いという評価。兄貴達2人が死んでいるので序列で棟梁となります。…が、やはりもうどうにもならず八方塞がりの事態に陥り、平家一門は『安徳天皇』と供に『三種の神器』を持って都落ちします(このとき法皇を取り逃がし同行させれなかったので、官軍では無いです)。
一時は福原まで勢力を復活させた平家ですが、義経の奇襲作戦により『一ノ谷の戦い』『屋島の戦い』と連敗。後退した平家は、ついに『壇ノ浦』へと追い詰められることに…(九州も源氏に抑えられているので、逃げ場無し)。
壇ノ浦
現在でいう山口県の下関の海上で、平家は一族の存亡を賭けた最後の抵抗を試みる戦いに挑むことになります。少し前までは圧倒的な制海権を備えていた平家でしたが、義経が有力水軍を味方に付ける工作を進め勢力を挽回。この『壇ノ浦の戦い』の開戦時点では、源氏側が兵力的に優位な形勢となっていました。平家は、宗盛の弟で武闘派の『知盛』を大将とし、義経自ら先陣に立つ源氏(このときの強引な主張による諍いが、後々頼朝にチクられる原因に…)と対峙します。
当初は、早い潮の流れに乗った平家軍が、激しく矢を討ちかけ海戦に慣れない義経軍を追い詰めていきます。そこで、不利な状況に陥った義経は「相手の船の漕ぎ手を狙え」と指示し反撃に…。この命令が当時のルールを破るものなのかは分かりませんが、それは「とにかく戦いに勝って生き残る」という定めを持った武士というものの特性だったのかもしれません(戦いの最中なのに、扇の的を射る余興を用意する平家との差です)。やがて、潮の流れも反転し、今度は義経軍が優勢に!猛攻撃を受けた平家は、逃げ場も無く壊滅状態に陥り、ついに敗北確定となりました。
平家平家平家平家源氏源氏源氏源氏源氏
知盛が安徳天皇に仕える女官達に「東国武士が船に乗り込んで来るので、覚悟して…」と伝えると、悲観した彼女らは次々と海へ身を投げだします。「どこにいくの?」と問いかける安徳天皇に対し、「波の下の都…」と答えたおばあちゃん(泣けますよね)。幼い天皇を抱きかかえ、『三種の神器』と共に波間へ沈んでいくのでした。
義経は、なおも戦い続けていた平家一の猛将に狙われるも、船から船へと軽々と飛び移り、その場を切り抜けます(『八艘飛び』です)。「もはやこれまで」と入水する平家一門の武将達。ただし、棟梁の宗盛は泳ぎが上手く沈みきれなかったらしく、敵兵に救助されるという…(何やってるんでしょうかねぇ?)。最期、大将の知盛は「見るべきものは全部見た!」とつぶやき皆の後を追います。こうして『壇ノ浦の戦い』は、源氏の勝利で終わるのでした。ちなみに、安徳天皇の母の徳子さんは、熊手で海から引き釣り上げられます(長い髪の毛ですから…)。合戦後には出家して、京都大原の寂光院で平家の供養をして過ごしたといいます(平家物語の締めくくりの語り部分)。
その後
三種の神器ですが、鏡と勾玉は何とか回収するも、剣だけはどうしても探し出せず…。失ったのはオリジナルではないという説もありますが、天皇の権威を象徴する物ですから、長い間捜索を続けたようですね。
一方、勝利した義経なんですが、京都に凱旋して法皇から官位をもらってしまいます。この行為が、これから武家政権を作ろうとする頼朝にとっては許されない(恩賞は武士トップの棟梁から授かるべき)ものであったので、鎌倉への入国も許されず兄弟で対立する事態へと発展する事になっていきます。ならばと、兄の頼朝を討とうとするも失敗。逆に奥州平泉で追い詰められ、自害し果てる運命を辿るのです。滅ぼした側が滅ぼされる因果、またもや『諸行無常』ですよ。
以上が、『壇ノ浦の戦い』の全容になりますね。ここからが本格的な武力行使の時代となり日本史的に興味をかきたてられる出来事が増えていくので、また徐々に合戦の記事を増やしていきたいと思います。
あと余談ですが、『耳なし芳一』とか『ヘイケガニ』とか『落ち武者』とかって怖くないですか?子どもの頃の話で今は平気なんですけど、お経を書き忘れた耳だけ引きちぎるとか、海に沈んだ平家一門の亡霊が乗り移った甲羅の模様とか…。映画の『八つ墓村』のあの雰囲気も、ビビッてましたよ(平家の落ち武者じゃないですけどね…)。