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西郷どん、きばれ! - 明治維新総仕上げ
西南戦争
明治維新の立役者『西郷隆盛』が最期を迎えた『西南戦争』の記事を書いていきます。日本の南西方面での戦いなのですが、なんで『南西戦争』じゃなくて『西南戦争』なのか?それは、…。『東北地方』も同じ理由で「明治中期以前は、南北より優先して東西を前にしていたから」とのこと。中国文化の影響(『東西』が前)→ 西欧の学問(『南北』が前)への切り替わりがあったそうです。
さて、今回の主役の西郷さん、大人気ですよね?NHK大河ドラマにもなりましたが、それ以前より…というか、生前から大衆に慕われた存在だったようです。なんでも『西南戦争』の頃も、星になって庶民の前に現れたりしたそうですし…(地球に接近して明るく輝く火星が『西郷星』と呼ばれ大騒ぎになっています)。
1年間ずっと視聴していた『西郷どん』が、私の中では一番身近な西郷さんですね。テレビ画面の中では、人間味溢れる性格な上に苦境に耐え忍ぶ姿が映し出されていたので「やはり、誰からも好かれるヒーローなんだろうな」とは思いました。…が、でも、一個人としての意見なのかもしれませんが、あのドラマの中で「西郷さんって、結局何を実施した人なの?」とモヤモヤしたものが残ったのは自分だけですかね?プライベートな交流を主に描いていたからか、正直いって時代を切り開いた重要人物には見えなかったです(世話焼きでお人好しの上役くらいの感じ)。上野公園にある親しみやすい西郷さんをイメージして制作されたんでしょうか?まぁ、大河ドラマの批判はこの辺にして、次いきます。
いきさつ
新政府と西郷さんが対立した『西南戦争』は、明治10年勃発です。政府が誕生してから、結構月日が経ってますよね?では、なぜ江戸幕府を倒した第一人者である西郷さんが、自らが立ち上げた政府と戦わなければいけなかったのか?…は、西郷さん本人の境遇を辿っていくと流れを掴めると思いますので、確認していきましょう。
まず、勝海舟との会談で江戸無血開城を実現。まさに歴史的な偉業でした!実際のところ、ここまでの道のりも苦難の連続だったのですが、今回は説明は省かせていただいて、その後を解説していきますね。戊辰戦争の終盤、体調不良でもあり故郷に戻ったりしていますが、終戦後は鹿児島に凱旋した薩摩藩兵の対応をしています。維新で勢いづき「派閥解消!能力や功績による人材登用!」と主張する藩士と島津家との仲介役ということです。
余談ですが、西郷さんも私と同じく、かなりの温泉好きだったみたいです(私はスーパー銭湯ですが…)。広い湯舟に浸かると、疲れた心が癒されますからねぇ。そりゃ、日本の未来をしょってたつ西郷さんと私とでは受けてるストレスは別次元なのでしょうが「温泉入りたい」という気持ちは一緒ですよ!例えば、露天風呂で流れる雲なんかをボ~ッと見ていると「ちっぽけなことで悩んでてもしかたないよな」とリフレッシュできます。西郷さんも自宅近くの温泉で湯治して(私の日帰りとは違って、長期間滞在してたようですが…)、心を整えてたんでしょうね。そんなとき、藩主島津忠義が温泉地に来訪します。その藩政要職への就任依頼を引き受けることになると、今度は地元鹿児島の為ひた向きに働くのでした。ちなみに、若い頃は当時の殿様であり名君と呼ばれている『島津斉彬』を尊敬し献身的に尽くしています。この殿様に見いだされて登用された西郷さんは、目指す富国強兵・近代工業化・尊王思想に共感し、彼の手足となって従事しました。しかし、斉彬は急死(後を追い共に殉死までしようとしてますね)。その後、薩摩藩家督の後見人となった久光とは、逆にかなり相性は悪かったようです(実際、島流しにされてますし…)。そうした関係でしたので、鹿児島での取りまとめ役も大変だったのでは?と思われます。
中央政府
明治4年になると、中央政府の愚行を正し政治改革を進めるため、上京して国政へ参画。西郷さんほどの維新の功労者ですから、周りも放っておかないですよね。そこでは内閣人事や廃藩置県を決行、政権のリーダー的存在となっていきます。主要メンバーが条約改正の為に欧米へ出かけた後の留守政府でも、様々な改革や制度の整備を進めて優れた政治力を発揮しました(軍制・学校・銀行・暦・司法・租税など)。
雲行きが怪しくなっていくのは、このあたりから…。朝鮮半島への対応をどうするか?という問題が、外交使節団との関係をこじらせてしまいます。武力で条約を締結させる『征韓論』に傾きつつあった留守政府は、まずは西郷さん自身を全権大使として派遣する案を採択。それに待ったをかけたのが、帰国した使節団のメンバーでした。「留守中に大規模な改革を進めるな!」という約束を破ったというわけです。色々な施策を矢継ぎ早に実現してきましたが、この朝鮮への西郷派遣問題が決め手になってしまったようですね(使節団メンバーは、海外ではなくまずは日本の富国を優先するべきとの意見を持ってました)。宮中工作の末に採択した案は却下され、西郷さん含め多数の政治家・軍人・官僚が辞任するという『明治6年政変』が起こってしまうのです。
私学校
鹿児島の自宅に帰った西郷さんは、温泉に行ったり猟に出たりすることが多かったみたいですね(相当の温泉好きですよ)。また、西郷さんに同調して集まった人達の秩序を守るために私学校を開校。その学校が数年経つと鹿児島県下の最大勢力となり、県政も切り盛りするようになっていきます(この影響力に政府は不信感を持ちます)。
時代が変わり居場所を失った士族が不満を溜めつつある中、明治9年の条例にて武士の魂である刀と俸禄を剥奪されると、その士族が各地で次々と反乱を起こしていきます。それぞれは鎮圧されていったのですが、鹿児島にもその風潮が強まっていき…。
翌明治10年。発端は、新政府が行った倉庫にある武器弾薬の運び出し騒動と、『シサツ(視察 / 刺殺)』でした。「薩摩が使うべきもの」と弾薬庫を取り戻し、鹿児島への視察組を「西郷さんを刺殺しに来たヤツがいる」と思いこみ暴走、決起してしまいます。私学生から担ぎ出された西郷さんは「おいの命、おはんらに預けもうした」と、皆と運命をともにする決意をし挙兵するのでした(これ以降、西郷さんは大勢が決する最後まで軍議に口を出すことはなかったようですね)。
開戦
ついに、最大規模の士族による武力反乱が開戦します。目的は、大軍を率いて上京し、政府に抗議すること。でも、西郷さんの本意ってなんだったんでしょう?戦いに勝ちたかったんでしょうか?たぶん違いますよね?勝つつもりだったなら、今までやってきたように陣頭指揮をとるはずですが、今回は側近の幹部にすべて任せて沈黙することを決めています。西郷さんが奮闘して内乱が長引けば、諸外国の侵略を受ける引き金になってしまうのも充分承知しているはずです。想像でしかないのですが「あえてここで士族が敗れることで、日本の反体制勢力が一掃されて次の飛躍に繋がる」と考えたのではないですかね?先を見越し自分の身を投げうってでも、その先導役になろうとしたのでは…。
まずは、新政府が陣取る熊本城へと進出します。総攻撃を仕掛けるその数、14000。しかも、維新の戦いを勝ち抜いてきた薩摩藩兵のツワモノどもです。籠城側はわずか4000、「簡単に落とせる」と思っていたのでしょうが、そこに戦国大名『加藤清正』が立ちはだかります。なぜ明治の世なのに、戦国の武将が?!?ご存知ですかね?築城の名手と呼ばれていたのを…。しかも、その熊本城は清正の最高傑作で、強みは石垣(上に行くほど勾配が急になる反り)と、籠城性能。清正、恐るべし!西郷さん達は、この戦国武将の遺構と戦うはめになるのでした。清正の設計した熊本城の守りは時代を経てもなお堅く、西郷軍は制圧できずに攻めあぐねます。すると、正規政府軍が熊本を援軍すべく南下開始。進むルートは、唯一大砲を運べる道である田原坂。対する西郷軍の遊撃隊も、城の包囲を任せて前進します。ついに両者激突!わずか300mの間のせめぎあいで、1日に30万発もの弾が飛び交う西南戦争最大の激戦地となりました。弾と弾がぶつかり合ってできる『空中かち合い弾』がたくさん落ちていたというほどですから、どれだけ猛烈な銃撃戦だったのか!
なお、西郷軍の方は歴戦の猛者がいるので、白兵戦はめっぽう強かったようです。これに対抗するため、政府軍は剣術に優れた兵士を集めて『抜刀隊』を編成。これが、主に元薩摩藩士だったので、この田原坂では同じ故郷のもの同士が斬りあうという壮絶な光景が繰り広げられることになります(あぁ、悲惨!!!)。「越すに越されぬ田原坂」と嘆き多数の犠牲者を出した政府軍でしたが、抜刀隊の効果や高台への大砲設置、武器や装備の差(西郷軍の旧式は雨に濡れると撃てなかったり、雨で動きにくい服装など)で、なんとかこの坂を奪取したのでした。
敗走
『田原坂の戦い』での敗戦こそが、西郷軍の致命傷でした。しばらく周辺にて抵抗を続けるも、押し寄せる新政府軍には敵わず熊本城の包囲を解くことに…。後に「官軍ではなく、清正公に負けたのだ」と言わしめた出来事で、当初の目的の熊本城攻略に失敗したことが『西南戦争』の流れを決定付けてしまいましたね。この後、西郷軍は日吉・宮崎・延岡へと敗走を続け、最後の大戦である和田峠でも大敗。ついに、軍隊は解散となるのです。
西郷さん自身は、残兵400名ほどとともに山岳部を抜け(包囲網を突破し、道なき道を進む非常に困難な行程でした)、やがて故郷鹿児島に戻って城山を占拠します。城山を取り囲む側は70000人ですから、勝負はもう目に見えているのですが…。総攻撃が始まると、西郷さん達は敵陣へと突撃していきます。次々と銃弾を浴びて亡くなっていく仲間達。西郷さん自身も、腹と股に被弾。「もう、ここらでよか」と東方を拝礼、切腹してこの世を去りました。
官軍官軍官軍薩軍薩軍西郷
『西南戦争』の後、日本国内では内戦は起こっていないんですよね。それは、政治不満を持つ人達を、西郷さんが自らの死への道連れにしてくれたからなのかもしれません(明治政府も内心「助かった」と思ったのでは?)。以降、一致団結し足並みをそろえた日本は、次の新しい第一歩を踏み出していくのでした。