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あなたは
どっち派?
30票 vs 30票
- 税取り立てすぎは良くない
の立てすぎは良くない
。いくら全員ランデス言え
キリシタン大名への弾圧
徳川幕府は税の取り立てに対してそこまでやっていない
キリスト教を信じた人たち行動
税の取り立てに苦しんだ結果 - ここから戦いの無い世の中に
島原の乱
今回は、江戸時代が始まってしばらくした時期に九州で起こった『一揆』の話です。『一揆』というと生活に困った百姓たちが竹槍とか鎌とか鍬を掲げ「お代官様~!」と詰め寄る光景を思い浮かべます(私だけ?)が、日本史上の規模として最大級でしかも相手が徳川幕府なので実は明らかに内戦といえるレベルのものだったりしますね。更に、決起したのは農民を含むキリスト教徒の人々で、『合戦規模』をまとめた他のページでも紹介していますが、総勢はなんと16万(キリスト教徒3万7000 vs 徳川軍12万5800)という!!『島原の乱』は、あの『関ケ原の戦い(総勢18万)』にも匹敵する多人数が関わる宗教的反乱だったりするんですよ。
個人的な事なんですが『いっき』と聞くとどうしても以前勤めていたゲーム会社の作品名を思い浮かべてしまいます。しかもそのゲーム、一揆なのにプレイヤーが1人もしくは2人(民衆が団結して皆で行動するものじゃないのか?!?)。当時から「アクションだったら忍者とかのカッコいい主人公にすべきで、何でこんなセンスのないものをテーマにするかな?」とかは思ってました。まぁでも、よくよく考えたら任天堂でさえもマリオは変なおっさんですし、いいんですけどね…。歴史の記事を書いているというのに、若い頃の全く繋がりのない想い出が頭に浮かんでしまいました。あの時代、必死こいてゲーム作ってたなぁ~と…(今、調べたんですが、昔オリジナル作品として制作したソフトがWikipediaのページになってて、私の実名がプロデューサー兼プログラマーとして載っててビックリしました)。
キリスト教の伝来
話が逸れましたが…。とりあえず、キリスト教が日本でどう広まっていったのかを説明する必要があると思います。
まず一番に、初めて日本にキリスト教を伝えた『フランシスコ・ザビエル』でしょうね!この人の肖像画は、社会の教科書の中で誰よりも強烈なインパクトを放っていました。この人です!!なんで、河童みたいな頭してるんでしょうね?鹿児島に上陸したのが1549年の室町時代。権威が失墜していた足利将軍にかわり、各地で戦国大名が群雄割拠していた頃です。薩摩藩での布教はうまくいかず、長崎の平戸へ移動。京都では天皇や将軍には会えず、何とか山口の大名に教会を与えられて宣教活動を進めることに…。その後、大分でも大名の保護を受けた後、一旦インドへ帰り、日本には再び戻ることなく46歳で亡くなりました。
宣教師たちの努力で、日本での信者は次第に増えていきます。時の権力者となった織田信長とは、良好な関係を築くまでに進展(逆に歯向かった仏教の宗派などは焼き討ちにまでされてますが…)。
キリスト教の禁止
続く豊臣秀吉も、当初は信長同様キリスト教布教を容認。ただ、九州を制覇した頃、宣教師による度が過ぎた行いへの措置としてバテレン追放令を発令しています(それでも、南蛮貿易の利益が絡んだりしたので、幅広く黙認はされていたようですね)。後の『サン=フェリペ号事件』での迫害へと続くのですが、布教が許されないそんな状況のもとでも、キリシタン大名として信仰を守り続ける藩主などもまだいました。しかし1612年、徳川家康により決定的な禁教令が言い渡されることに…!貿易利益を得る西国大名や幕府支配の妨げになるキリスト教徒に対し、教会の取り潰しや強制改宗といった禁教政策が徹底されていきます(大坂の陣を控えていて、敵対勢力になるのを怖れたという事情もあります)。これらがその後、江戸幕府の特徴のひとつである鎖国に繋がっていくというわけです。
圧政と弾圧
キリスト教をめぐる上記の様な時代背景があり、九州地方を中心に広がっていた信者の立場は年を追うごとに危うくなっていきました。島原半島や天草諸島では、それまでのキリシタン大名に代わり新しく転封されてきた領主が残忍を極める圧政を始めます。・様々な税の新設とシビアな取り立て。
・自己アピールのための、豪華な城。
・過大に見積もった石高のしわ寄せによる重い労役や年貢。
・凶作を考慮せず、重税のまま。
・妻や娘を人質に…。
年貢が納められない庄屋の妻が、身重なまま人質にとられるという事件もありました。冷たい水牢に裸で入れられ、6日間の苦しみの末に水中で出産した子どもと一緒に死亡させるなんてひどいことが行われていたり…。あと、蓑をまとった農民を縛り上げて火を点けてもがき苦しむ姿を見せしめとする『蓑踊り』と呼ばれる拷問や、熱湯攻め、指の切り落し、顔への焼印といった痛ましい残虐行為も記録に残されています。
乱の始まり
3年間にもおよぶ深刻な飢饉に見舞われてもなお過酷な取立てをする藩に対して、武士から浪人や百姓に没落していた旧家臣達が団結して組織を固めていきます。リーダーとされたのは、神童とうたわれ長崎遊学後の『天草四郎』という若者。十代半ばながら、父親が小西行長(あの関ケ原の戦いで敗れたキリシタン大名ですね)に仕えていたこともあり、信者の中ではカリスマ的存在だったようです(25年前に宣教師が告げた救世主の予言にも合致していました)。急激に増していく民衆の勢いは村々の人の間に広がり、キリスト教信仰を強要する暴動へと発展(異教徒の僧侶・神職は殺され、寺社は取り壊されたようです)。そんな中、蜂起した一揆勢が反逆し代官を殺害してしまったのが『島原の乱』のキッカケとなりました。
鎮圧隊を派兵した島原藩と深江村で交戦した一揆軍は、相手を島原城まで押し返し撤退させます。城下町を焼き払い、勢力を増すキリシタン達。対岸の天草諸島でも『天草四郎』が呼応して活動を開始、本渡城へ進軍し更に富岡城本丸を落城寸前にまで追い詰めていきました。
原城
報告を受けた幕府は、九州諸藩を討伐軍として編成。島原と天草の両一揆勢は城攻め途中での敵軍到着が不利だと判断し、籠城戦へと方針転換して廃城であった原城に集結します。総勢で37000人という多くの信者が集まりましたが、さすがに徳川の威信をかけた幕府軍とは格差があり、すぐに決着がつくものかと思われました。
キリシタン天草四郎討伐軍討伐軍板倉重昌老中
徳川軍率いるは、将軍親衛隊長である『板倉重昌』というお方(お父さんとお兄さんは、京都の名奉行)。ただ残念なことに、九州の大大名達を統制できるだけの身分や貫禄は無く、諸藩寄せ集めの軍隊は戦意が低いままで再三の総攻撃も失敗に終わってしまいます。士気が高く城の守りも堅い一揆勢に対し自らの落ち度を認識した幕府は、次に老中を派遣。その老中到着前にけじめをつけようとした『板倉重昌』は、最期に4000人の損害と共に討死しました(一生懸命で真面目な方だったんでしょうが、道連れはどうかと…)。
赴任した老中は、増援で12万にもなった軍勢で原城を取り囲みます。忍者を潜入させて一揆軍の食糧が少ないのを察知すると、総攻撃から兵糧攻めへと作戦を変更しました。断崖絶壁の下にある海藻を食べるしかない状況に追い込まれていたのを敵兵の胃袋を割く事で確認した幕府軍は、総攻撃を再開。圧倒的な兵力の差の上に弾薬も尽きていた原城は遂に陥落します。天草四郎は討ち取られ、籠城したキリシタンは皆殺しという結末となりました。『島原の乱』の後、幕府は禁教策(定期的な踏み絵でのキリスト教徒の識別や、寺請制度での宗教統制)を強化していくことになるので、わずかに残された信者は隠れキリシタンとして深く潜伏することになっていきます。