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歴史上の人物や戦いを解説する情報サイトです!

戦いに至るまでの経緯や戦況、人間模様を紹介。

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日本史要約


日本の歴史を広い視点からみるために、おおまかな時代の流れをこの記事の中にまとめておきます。

数多くの合戦を取り上げて詳細に説明していくと、必ず戦いに至る何かしらの要因があることがわかります。関わる当事者の動向が一番影響を与えているのはもちろんなのですが、大局で見れば過去から脈々と積み重ねてきた歴史の成り立ちが非常に大きな結びつきを持っていると理解できるので、ココに簡易的ではありますが整理しておこうということです。

(別に変な宗教に入っているわけではありませんが)時の神様がいて、時期が来ると社会を動かしてくれる人を選び出して変革を成し遂げさせているのでは?などと感じたりもしますね。世の中に必要とされた英雄と呼ばれている人達って、神に選ばれた人なんじゃないかな?と…。

そんな時流を把握するのには『学習漫画』が最適かと思います。古い年代から順序よく描かれてるので、その時々の風潮を解釈しやすいのではないでしょうか(当然、日本史に興味があるという前提ですが…)。実は私自身は、その学習漫画を原作とする全52話のアニメの方を主としています。漫画でもアニメでも何度か見返すことによって、今まで単体だった事件や出来事につながりを見いだすことができますよ。大人向けに書かれた漫画も販売されているようですので、機会があれば読んでみてはいかがでしょうか?

原始


いきなりですが、最初は『氷河期』の話です。『ミランコビッチサイクル』という地球の公転軌道や地軸の傾きのズレで周期的な氷期と間氷期のサイクルが決まってくるのですが、その間氷期の訪れで1万年前に暖かくなり水位が上がって大陸から分離したのが日本の始まりですね。参考までに、もうすぐ今後10万年続く氷期が到来するみたい…(温暖化された地球は冷やされる?)。


日本列島が形成された当初は、石器を使った狩猟や採集が行われて縄文式土器や土偶が作られていた時代です。日本人の人口はわずかに数万人というから驚きですよね(私が暮らしている田舎の町レベル!)。

水田での稲作が広まった弥生時代には、渡来人が流入して50万人に…(それでも、やっと政令指定都市1個分の人数)。収穫したお米が備蓄できることより、人々の間に貧富の差が生まれたのもこの頃からです。また、田んぼの水や肥沃な大地を巡って集落同士の力関係が発生、村単位から国への共同体へと次第に集団は大きくなっていきました。そんな中の3世紀『卑弥呼』で有名な『邪馬台国』が登場します(中国の『魏志倭人伝』に記載あり)。ただ、それが、九州にあったのか、畿内にあったのか、大和朝廷と関係あるのか等は、謎に包まれたままですね。

まだ文字が無い日本の記録はその後途絶えて(空白の4世紀)いますが、形跡は古墳に残されました。
日本史要約
写真の『前方後円墳』などは(大きさはマチマチでしょうが)日本の各地で造られているので、ヤマト王権での大王の支配力が拡大し全国へ浸透していたのだと推測できます。また、中国にある石碑には、日本が朝鮮半島まで進出していた事実が刻まれていたりします(いや、これは想像以上の勢力ですよ)。

6世紀には物部・蘇我などといった力をつけた豪族が実権を握り、伝来した仏教を巡って争いを起こしました。勝利した崇仏派の蘇我氏は、後に政治基盤を掌握し朝廷を意のままに動かしていくことになるのです。

古代


続く7世紀の飛鳥時代といえば『聖徳太子』。中国へ遣隋使を派遣し海外の文化を取り入れ、蘇我氏とともに仏教を広く行き渡らせました。また、朝廷に仕える役職の身分を、氏族でなく個人を評価して区分する『冠位十二階』という中央集権国家体制の基礎となる法を制定しています。有力者達を軸とする官僚組織の中央政府が機能し始めたという感じでしょうかね。

聖徳太子が亡くなり横暴な態度をとり始める蘇我氏に対し、中大兄皇子・中臣(藤原)鎌足が立ち上がりクーデターを起こして『大化の改新』を決行。天皇は権力を豪族から取り上げ、土地と人民はすべて公(天皇)に帰属するものとしました(戸籍に基づいて土地を農民に貸し課税)。

8世紀の奈良時代にかけては、多数の人間が朝鮮半島を経由し日本へ移住しています(人口は600万人)。天皇を頂点とした貴族・官僚による中央集権が完成。遣隋使に続く遣唐使の影響もあり、大仏建立など国家を守護・安定させる力があるとする仏教の文化が花開いていきました。
日本史要約
ここで、食料の生産高を増やすため『墾田永年私財法』という後に影響を与える法律が施行されます。開拓した土地をいつまでも自分の財産にできるということで、資本を持つ貴族・お寺・豪族はこの法をキッカケとして荘園を広げ着々と力を付けていくのでした。

さて、いよいよ400年近くもの間、政治の中心を京都においた平安時代。江戸時代でさえ260年くらいなので、期間としては相当長いです。
日本史要約
そんな節目に出てきた役職が『征夷大将軍』。まぁでも、徳川家康のような「武士の棟梁としての最高権力者」の意味ではなく、ここでは文字通り「東北地方の蝦夷を征討する官職」なのでした。ただ、これってなんとなく、武士の起源を予感させませんか?

武家が中心になって天下を統治するのはもう少し後で、やっぱり平安時代といえば藤原氏(前述した中臣鎌足の子孫)による『摂関政治』でしょう。天皇との親戚関係を利用し、摂政や関白の座について政治を操り、権力を代々維持し続けました。あの手この手で台頭する者を蹴落としたそのライバルの代表的存在が、学者の家系である『菅原道真』。藤原氏の策略で指名された遣唐使は「唐の国が滅びる寸前」という理由で取り止め(このことが、国風文化を発展させます)としましたが、結局は九州の大宰府へ左遷させられ亡くなっています(その後、怨霊となって色々な災難を引き起こすことに…)。

10世紀に入り、初めて武士が登場します。あの首塚でお馴染みの『平将門』が最初と言われていますね。『平氏・源氏』の姓を与えられた皇族の一部が、取り締まる地方を守るため土着して武装したのが始まりとなりました。そんな将門は「新皇」と名乗り、勝手に「帝」にまでなっています(わずか2ヶ月で討ち取られましたが…)。

一方、中央では貴族を中心とした王朝文化が開花します。墾田永年私財法で私有化された土地は、免税のために貴族へ荘園として寄進されて彼らの優雅な暮らしを支えることになりました。その国風文化の代表が『平仮名』ですね。
日本史要約
『安→あ』『以→い』『宇→う』『衣→え』『於→お』…。また、藤原氏の子女の教育係である『清少納言』『紫式部』が、その平仮名を使い『枕草子』『源氏物語』の2大女流文学を生み出します(漢字・かな混じり文が、日本語の読み書きの利便性を格段に向上させました)。

摂関政治の絶頂はこの辺りまで…。天皇が荘園の整理に着手すると、藤原氏の勢力は衰えていきます。幼い息子へ譲位した天皇は、上皇として権力を握ることに…。こういうのを『院政』っていいます(上皇が出家すると法皇になりますが、同じです)。

関東や東北では『平将門の乱』以降、朝廷からの派兵で源氏が力を持ちました(鎌倉幕府・室町幕府へと続く家系)。平氏の一部は伊勢に移り住み、後に『平清盛』が中央で出世を重ねていきます。そのキッカケが、武士の力を借りて天皇方と上皇方で争った『保元の乱』。続く『平治の乱』で対立した源氏を討ち取った(『源頼朝・源義経』は、からくも生き延びます)平清盛は、武力を背景に一気に中央政権の主役へと躍り出るのでした。かつて繁栄を極めた藤原氏のように、今度は軍事貴族の平家が実権を把握!

ただ、平氏政権は長くは続きません。源氏の棟梁である源頼朝が挙兵して元々影響下にあった関東の豪族達を平定、鎌倉を本拠地として打倒平家を具現化し始めます(悲劇の英雄である源義経も合流)。
日本史要約
各方面で反平氏の動きが活発化し更に平清盛が亡くなり、ついに平家は『三種の神器』を携える幼い天皇とともに都落ちすることになりました。義経の活躍もあり『壇ノ浦の戦い』で平家は滅亡。ここに平安時代は終わり、武家政権が成立するのです。

棟梁として武士団を統率する頼朝にとっては、天皇からの恩賞を受けた義経の存在は決して許すことのできないものとなります。鎌倉にも入れてもらえない義経は、各地を彷徨い流れ着いた先の平泉で、その命を落とすのでした…。

中世


12世紀末、源頼朝は鎌倉幕府を成立させます。さきほどの義経追討の時に諸国の領地を管理する地頭を置いたのが、武家政治の基礎となる封建制度ですね(将軍と御家人の主従関係のもと、土地を治めさせること)。

しかし、頼朝は急死。家督を継いだ2代将軍には東国武士団をまとめる力量がなく、幕政は執権の北条氏(頼朝の妻の親族)が担いました。源氏の正統な血筋が3代で途絶えると、朝廷は幕府を倒そうと『承久の乱』を起こします。結果は鎌倉幕府側の圧勝。この勝利で武士による統治の方が優れていることが示され、朝廷は幕府の支配下に置かれるようになります。また、没収した西日本の土地を御家人に分け与えて強固な信頼関係を築き、幕府の勢力を全国規模にまで拡大させました。

北条氏が執権を代々世襲していた鎌倉時代中期に、蒙古が襲来します。
日本史要約
神風が吹くなどの運もあって日本は勝利を手にしますが、戦いに貢献した御家人への恩賞はなく(奪った土地なんて当然無いですから…)財政的不満を生み幕府の弱体化を引き起こす原因となってしまうのでした。

こんな中、幕府や領主に反抗する集団が、次第に勢力を伸ばしていきます。『悪党』と呼ばれる彼ら(なんか、極悪人みたい…)の代表的存在『楠木正成』は、天皇の鎌倉幕府討伐計画に参加。この辺りから完全に時代の流れは変わってきて、ついには源氏の家系である『足利尊氏』『新田義貞』が京都・鎌倉を攻め、幕府を討ち倒してしまいます。

そして始まったのが、天皇みずからが全て取り仕切ろうとした『建武の新政』。公家などが優遇された結果、不満が解消されない武士は源氏の嫡流である『足利尊氏』に期待を寄せるようになり、その足利が楠木・新田を破って室町幕府を開くのでした。

足利新田

ここで、吉野に逃れた南朝側と幕府が擁立する北朝側とで、60年ほど2人の天皇が存在することになります(南北朝時代)。これに、足利家の兄弟喧嘩などが結びつき、室町幕府の船出はゴタゴタ状態に…。南北朝が統一されるのは3代将軍『足利義満』の時代。この頃になると、もう地方は守護(元々は幕府の役人)のものになっていて(年貢の半分が収入)、将軍をも上回る力をもつ守護大名が現れてきます。…が、義満はその守護の3大勢力を打ち破ることに成功。また、貿易での莫大な利益もあり、金閣寺などの北山文化を京都に芽生えさせました。

室町幕府の繁栄は、正直この時期だけ。4代将軍は義満を全否定したやり方で進めるし、次はクジ引き将軍だし、農民は一揆を始める…。嫡子の居ない8代将軍なんて弟に将軍職を譲ると言った1年後に男子を産ませてしまって、守護大名の対立を生み11年にも及ぶ内乱(応仁の乱)を引き起こしてしまうし…。そんな荒廃しきった京都でも、銀閣寺を中心とする『わび・さび』の奥深い美意識を基調とする東山文化を生み出すのでした(例:和室、茶道、石庭、狩野派…)。
日本史要約
すでに、世の中は下剋上。地位を保持し続ける守護家も一部となり、家臣が主君を倒すのが一般的に…。この頃に『北条』『毛利』といった戦国大名が産声をあげます。皆さんが好きな戦国時代が、やっと到来しますよ!あの『武田信玄』『上杉謙信』…、その他続々と有名な武将が登場するので、一番ワクワクする時代ですね。

兵農分離や種子島に伝来した鉄砲など戦い方自体が変わっていく…、その時流に乗って頭角を現したのが『織田信長』。桶狭間の奇襲で『今川』を破り、『徳川家康』と同盟を結び、義父『斉藤道三』が委ねた美濃を支配下としました。この攻略には、信長の草履とり(懐で温めた逸話有り)から出世していく『豊臣秀吉』の墨俣一夜城が大いに貢献しています。

名前だけの将軍である『足利家』は信長を頼り上洛しますが、やがて対立し各地に密書を出し信長包囲網を構築していきます。信長の妹の嫁ぎ先『浅井』の裏切りなど、絶体絶命に陥る信長でしたが、秀吉の功績・比叡山焼き討ち・武田信玄の死…で、そのピンチを振り切ることに成功。結果、足利将軍は京都を追放され、室町幕府は終了となりました。

近世


『朝倉』『浅井』を滅ぼし、さらに勢力を広げる信長。ここからが安土桃山時代ですね。鉄砲隊を使い最強の騎馬隊を有する『武田』をも打ち倒します(長篠の戦い)。…が、家臣『明智光秀』の謀反にあい、志半ばで自害(本能寺の変)。すぐに毛利を攻めていた秀吉が中国大返しをして仇を討ち、信長第一の家臣であった『柴田勝家』との勢力争いにも勝って、天下取りを引き継ぐことになりました。このあたり、それぞれの戦国大名の動向から、それを取り巻く女性たちの運命(信長の妹の3姉妹等々)までも、非常にドラマチックなエピソード満載な期間ではあります。

大坂城を築いた秀吉は、一度は戦った『徳川家康』とも適切な関係を築き、その支配を着実に西国へと広めていくと同時に、太閤検地を実施して徹底した封建制度を確立させます。城郭やその内装、または茶の湯といった、宗教ではない武家や町人を中心とする桃山文化が花開くのがこの年代。

秀吉の支配が『島津』の薩摩まで達すると、次に東国の『北条』を征伐『伊達』も制して、ついに念願の日本全国の平定を成し遂げるのでした。家康は、このタイミングで江戸へ国替え(今の東京の始まりですね)。
日本史要約
天下統一後、弟を亡くした秀吉の野望は暴走…、朝鮮半島への出兵を始めます。また、関白の座を譲り家督を相続したはずの姉の子を、自分の嫡子が生まれたことで切腹に追いやったりと、歯車を狂わせた中で秀吉は亡くなりました。

ここで、長年ずっと耐え続けてきた家康が動き出します。秀吉の嫡子はまだ幼少…、その後見人である『前田利家』は、武断派と文治派で対立する家臣団の仲介役でもありましたが、まもなく死去。絶好の機会を得た家康は『石田三成』を嫌う武断派の武将達を味方につけ『関ヶ原の戦い』を仕掛けて勝利、恩恵として西国を中心とする土地を与えます(この石高の加増が独立した大名家という地位を生み、豊臣→徳川への忠誠と移り変わらせていきました)。

毛利秀元吉川広家池田輝政山内一豊小早川秀秋小早川秀秋脇坂安治脇坂安治大谷吉継宇喜多秀家小西行長島津義弘石田三成徳川家康本多忠勝福島正則藤堂高虎田中吉政細川忠興黒田長政織田長益井伊直政

征夷大将軍に就いた家康ですが、豊臣家をどうするか?という問題が残されていました。一大名として存続させようとするも、秀吉の嫡男の母(信長の妹の長女)の猛反対で全面対決することに…。ここに大坂の陣が開戦するのですが、時は既に関ヶ原から14年経過!秀吉の家臣だった有力武将は皆亡くなっていたりと、豊臣方に味方する大名は不在という…。浪人を集めて大坂城で戦うも、大軍で攻め寄せる家康に敵うはずもなく敗れ滅亡する宿命となりました(大坂 冬の陣・夏の陣)。

豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠真田信繁前田利常井伊直孝松平忠直藤堂高虎伊達政宗織田頼長後藤又兵衛堀田盛重中島氏種大野治長長宗我部盛親片桐且元塙直之速水守久蜂須賀至鎮大谷吉治木村重成明石全登毛利勝永大野治房浅井井頼南部信景毛利秀就浅野長晟山内忠義松平忠明鍋島勝茂池田忠雄本多忠政立花宗茂池田利隆竹中重門上杉景勝佐竹義宣真田信吉丹羽長重酒井家次南部利直本多忠朝九鬼守隆山崎家治

戦国時代が終わり、江戸時代になると、家康は徳川家永続のために武家諸法度を制定して諸大名を統制しました。また、キリスト教の禁止、鎖国につながっていく貿易の管理など、その後に長らく続く幕府の基礎を固めていきます。家康が亡くなってもその方針は変わらず、大名に対しては厳しい処分が下され、たとえ徳川に近い家柄であっても取り潰しになる事例が多々ありました。また、三代将軍の頃に始まった参勤交代により幕府と大名の主従関係は一層ハッキリし、謀反を企てる者は居なくなっていきます。

そんな中で、迫害されるキリシタンや飢饉での過酷な年貢徴収などに耐えかね、百姓による一揆が勃発(島原の乱)。結果は、幕府側の総攻撃で籠城した全員が死亡(処刑含む)という徹底ぶり…。鎮圧後は、宗門改による戸籍の元になる制度が始まり、本格的な鎖国体制がとられることとなります。

そして、幕府の盤石な体制を維持するため、士農工商という区分された身分が形づくられました(農民など生かさず殺さず働かせて、安定した年貢収入を得るため)。ただ、実際には武士より経済力を持つ町人が元禄文化を生み、時代をリードしていきます(歌舞伎・浮世絵・小説・俳句)。動物までも保護した『生類憐れみの令』や「殿中でござる」の忠臣蔵の事件が起きたのも、この頃。

人口の推移でいうと、戦国時代に1000万人程度だったのが、江戸時代になった百年で一気に3000万人以上にまで増えていますね。太平の世が訪れた証拠ですかね?徳川吉宗の時代には、倹約と増税による財政再建を目指したり(享保の改革)、田沼意次が賄賂政治を行ったりと、個人的にあまり興味を持てない年代が続いていきます。人口の増加による社会構造の変化で、土地の農民から取り立てた年貢の米を中心とする従来の封建制度が成り立たなくなってきて、徳川幕府が揺らいでいく原因になっていきます。
日本史要約
蘭学や国学が発展し、その後、寛政の改革・化政文化といった節約や町人文化が繰り返される中、ロシアが国交を開けと要求してきたりと世の中が次第に動揺し始めます。伊能忠敬の地図とか間宮林蔵の樺太探検とか、この頃から国防に関して慌ただしくなってきて、ペリーの黒船来航でいよいよ幕末突入という感じですね。

大量生産した綿製品など蒸気船を使って貿易するという世界情勢に、鎖国していた日本も取り込まれていきます。アメリカとの日米和親条約は、その蒸気エンジンのための石炭と水の供給を約束するというもので、長らく続いた鎖国を終わらせることになりました。さらに、天皇の許可なく結んだ日米修好通商条約に対し、尊王攘夷派が反発。大老も暗殺(桜田門外の変)されたりと、幕府の権威はこのあたりから著しく低下していきます。
日本史要約
天皇を敬い外国を打ち払おうとする思想に危機感を抱いた幕府は、朝廷と親戚関係になることを画策します(公武合体)。日増しに勢いづいていく尊王攘夷運動、その中で特に過剰な行動をとっていた長州藩が京都から締め出され敗北する事件が…。しかも、下関が外国から攻められたことで、攘夷が無理だと認識。以降、薩摩藩と手を組んで方針を尊王倒幕へと変えていくのでした。

この軍事同盟の密約が、長州を蘇らせ幕府の長州征伐をはねのけることになります。倒幕という時代の流れは止められず、幕府は大政奉還をしてその意義をなくそうと企みます(倒す幕府が無い)が、今度は王政復古の大号令で徳川家の実質的な政治権力を失わせることに成功。

近代


政権を得たとしても依然として徳川の戦力は残っているので、明治新政府としては直接戦って徹底的に制圧したいと思っています。江戸の秩序を乱す薩摩に対しての挑発に乗ってしまう旧幕府軍。それが戊辰戦争を引き起こし、江戸の無血開城や日本各地(上野~会津~北海道まで)での明治政府の勝利となり、全国を統一させる結果となるのでした。

それ以降は、廃藩置県で中央政府の決定を日本の隅々まで浸透させる仕組みを作り、富国強兵で産業や鉄道・工場・徴兵制で世界の列強国に追いつこうとし、西南戦争やいくつかの外国との戦争…、そして、あの太平洋戦争もあり、現代に繋がっていくという感じですね。
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