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  • 最終決戦だ
    油断しちゃダメ

桶狭間の戦い


『織田信長』対『今川義元』の『桶狭間』。漢字を見ると「山と山の谷間なんだろうな」って想像しますよね?私もやっぱり『崖から駆け下りる織田軍が、窪地で休憩する今川本陣を襲う』イメージが浮かびあがります(平家物語にある源義経の逆落しみたいに…)。

ところが、合戦が行われた『桶狭間山(やま)』は丘陵地帯だそうで、一般に知れ渡っている戦況とは随分違うらしいです。そもそも、軍営って(休ませるにしても)当時は地形的優位な高い位置に陣取るものであり、今川軍の行動としてはオカシイですよね。

結局、歴史は勝者の記録だったりするので、事実以上に話が盛られて伝わってしまうものだとか…。そりゃあ「ココ、正しくないよ」と敗者から指摘されはしませんし、魅力的に語り継いでくれたら嬉しいってのもありますよ。『桶狭間の戦い』も、信長の劇的な勝利で正しいのですが、その戦果に尾ヒレがついて脚色されてしまったということでしょう。
桶狭間の戦い
この記事では、なるべくその創作部分に流されずまとめていくよう心掛けますので、よろしくお願いします(…とは言っても、どんな戦いにも諸説はあるんですけどね)。

織田信長


18歳で家督相続した信長が数年かけて内部抗争を押し沈め、ようやく尾張を統一した時期の話です。関東の後北条氏や中国地方の毛利氏が下剋上で名をあげ領地を拡大し、武田信玄と上杉謙信が川中島でガチンコ勝負してた戦国時代の真っ只中。隣国では、信長と懇意な間柄だった『美濃のマムシ』の異名を持つ斎藤道三が息子に討たれ、駿河の守護大名今川義元が虎視眈々と尾張を狙っている、そんな状況ですね。

ちなみに、後北条・武田・今川は甲相駿三国同盟を結んでいて、今回の義元は攻略対象を三河の先にある尾張のみに絞ることができていました。
桶狭間の戦い
若い頃の信長は、かぶき者としての人目を引く風貌、父親の位牌にお焼香を投げつける奇行など、評判は極めて悪く周囲から『大うつけ』と呼ばれ見くびられていたらしいです。大大名である今川などは「一国で孤立している若輩者を攻めたてる事など難しくはない」と、当然考えるでしょうね。

ただ、実際には信長の親衛隊ともいえる仲間(例えば、前田利家)と領国内を駆け回るなかで、土地勘や後に天才的と言われるまでの軍事センスが養われていたようです(鷹狩りで正確な情報を掴み、味方を適切に配置したりとか…)。苦労したとはいえ同族・身内の反乱はキッチリ制しましたし、逆に非常識な行為そのものも味方をも欺く芝居だったのかもしれません。やはり「戦国の風雲児」ですよ。

人間関係


信長の桁外れな知名度の影であまり知られていませんが、父親もかなりの実力者でした。港町など交易の経済的基盤を確立し商業を重視する織田家飛躍の土台を作ったのは、この先代だとされています。那古屋城(名古屋)・安祥城(西三河)…、一時は、大垣城(美濃西部)にまで勢力を広げることに成功。

…で、隣接する岡崎城(安城市と岡崎市はホント近い)の松平氏が今川に助けを求め、人質として送り出されたのが竹千代(徳川家康)ですね。しかし、護衛の裏切りで駿河ではなく尾張へ…。2年間、織田の監視下に置かれていたので、幼少期の家康と信長の間には何かしらの繋がりがあったのではないでしょうか(記録には残ってないらしいですが…)。戦国の乱世であっても、後日結ぶ事になる二人の同盟がずっと保たれていたのは、子どもの頃からの付き合いがあったから?なんて、想像してしまいます。
桶狭間の戦い
やがて、安祥城は今川に奪い返され、竹千代は人質交換(駿河へ)となりました。この敗戦をキッカケとする国人たちの離脱など苦境に立たされた織田は、美濃の斎藤道三と和睦。関係改善の為、娘の濃姫と信長は結婚することとなるのです(私事で恐縮なのですが、大河ドラマ『麒麟がくる』で暗躍する斎藤道三とその娘が、非常に見応えがあってゾクゾクしています)。

国境線


形勢不利になったそんな混乱期に父親が死去し、信長が家督を継ぎます。陰りを見せる織田家を任された逃げ場の無い不安感…。そのやるせない気持ちが、葬儀という場での常識はずれな行動をさせたのかもしれないですね。
桶狭間の戦い
この世代交代の頃から尾張の国はバラバラに…。信長は、もう一度、領国内の統制からやり直すため翻弄しなければならず、弟を含め背く一族を粛清淘汰していきます。対外的には、美濃の有力な理解者であった斎藤道三が討ち死にしその息子とは敵対。西三河(と名古屋市南東部)では、国人の寝返りが相次ぎ勢力を衰退させる事となりました。

特に、今川勢の侵食は、海運貿易の重要な拠点を失う事を意味し、商業の財政を基盤とする織田家の本質を脅かす事態となり得てしまいます。ココ知多半島根元の地域をどちらが握るのか?その争奪戦こそが、この『桶狭間の戦い』なんですよ(定説とされてきた京都を目指す今川上洛説は、現在では否定されています)。
桶狭間の戦い
両国が対峙する境界線付近では、敵味方が入り乱れた状況に…。織田を見捨てた武将もいれば敵に内通していたり立場をハッキリさせない者がいたりしたので、お互い腹の探り合い状態になっていたと思われます。ただ、信長はこういう所の駆け引きが抜群にうまい武将だったりしますね。敵の動向を確実に把握しながらもコチラの動きは一切漏らさない、そんな情報戦を制する才能を持ち合わせていました。今回の勝敗の決め手が、まさにこの点だったのは紛れのない事実です。

清洲那古野笠寺緒川刈谷木田岡崎安祥沓掛大高鳴海蟹江知立

開戦前、鳴海城・笠寺城・大高城・沓掛城が今川側へと離反していました。阻止する織田勢は、笠寺城を奪還し、丹下砦・善照寺砦・中島砦・丸根砦・鷲津砦を相手方の城の周囲に構築。いよいよ、両者が直接対決する『桶狭間の戦い』がやってきます。

決戦


睨み合う尾張に向け25000の兵を率いて旗揚げした駿河の義元は、三河の沓掛城に着くと松平元康(竹千代→徳川家康、この戦いでは今川氏配下)に「先行して大高城へ兵糧を届ける」よう命じます。一方、清洲城の織田方は軍議を開くも結論を伝えずに家臣を帰らせています。実はコレ「密告者がいるかもしれない」と、あえて決定をハッキリさせない信長の作戦だったとか…(後の『長篠の戦い』でも、皆がいる軍議で却下した提案を会議終了後すぐに採用したこともあります)。

ところで、今川義元ってどんな印象がありますか?「海道一の弓取り」の異名を持ち、成り上がり者じゃない生粋の守護大名の11代目ですから「バカ殿みたい、麻呂、デブ、短足…」等と侮辱しないでくださいね。軍事・内政・外交に優れた名将だとする評価も多くありますし、そもそも輿を使っていたのだって「馬に乗れない」のではなく「家柄の高さを表現する演出」だったそうですよ。
桶狭間の戦い
指示通り大高城に入った松平元康は、味方の武将とともに周辺の砦に攻撃を仕掛け始めます。その一報を聞いた信長は舞『敦盛』を踊り(人生最期の『本能寺の変』でも「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」と舞ったらしい)清洲城を出発。熱田神宮で戦勝祈願をし、駆け寄る2500の軍勢を善照寺砦に集結させます。相手の1/10しか戦力がない織田方の狙いは『敵大将の首』のみと、ここで明確になりました。

大高城周辺の砦を制圧し終えた今川軍は、本陣(前後に1万ずつ分散させていたので5000人ほど)を桶狭間方面へと移動させます(また、囮作戦で直前にも1000人目減りさせられています)。その位置情報を掴み、2000の兵を引き連れひたすら義元の居る方角を真っ直ぐ目指した(迂回説は間違いらしい)信長に、突然天が味方しました。雹(ひょう)混じりの大雨に姿を隠した織田軍2000の精鋭部隊が(向かって降る雨で)見張りの視界を奪われた義元本陣に突如襲いかかります。

岡部元信鵜殿長照鷲津砦丸根砦善照寺砦中島砦丹下砦浅井政敏朝比奈泰朝松平元康今川義元織田信長

この時点でもまだ数の上では今川軍の方が多かったのですが、休憩して気を緩めていたこと、大雨で散り散りになったこと、非戦闘員の割合が高かったこと等、一気に本陣は総崩れとなってしまいます。この不意打ちに義元自身も「なぜ信長軍がココに?」と衝撃を受けたでしょうね(清洲城に居るものと思ってたはず…)。大将の死によって今川軍は撤退。討ち取られた義元の首は、抗戦を続ける鳴海城の明け渡しと引き換えになりました。

この合戦の勝利は他の戦国武将を驚かせ、信長の名を一躍全国に響き渡せることに!そして『桶狭間の戦い』での一番の功労者は、義元を討ち取った者ではなく「敵本陣が桶狭間山にある」ことを知らせた者になったそうです。情報の大切さとか分かってますね、さすがですよ。

今川と手を切った松平元康は、故郷の岡崎に帰還し独立。さらに名前を家康と改め、織田と同盟を組み、団結してその後の戦乱の世を勝ち抜いていきます。この歴史的な戦いを制し東の脅威を無くした信長は、勢力を西に拡大し『天下布武』への第一歩を踏み出していくのでした。
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