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- 絶対京に行ってやる
天下を取らせてたまるか。
鉄砲撃ちまくれ! - ゴーゴーレッツゴーレッツゴー武田
御屋形様~
騎馬隊のお通りだ〜
突撃!!
長篠の戦い
ウチから近い(…と言っても、一山越えます)愛知県新城市で起こった『長篠の戦い』のお話です。私が思う織田信長の合戦ベスト3(他は『桶狭間の戦い』『本能寺の変』)のひとつなので、張り切って記事にまとめていきますよ。まぁ、これだけ有名な戦いだと「知ってるよ」という事の方が多いかと思いますが、このサイトの特徴である『動く図解』も入れて(実は、動きを付けるのが超大変!)説明していきますので、よろしくお付き合いください。
ちなみに若い頃、愛知県北部や名古屋にも住んでた事があるんですが、この辺り一帯の東海地方という所は城や古戦場などの史跡が多くて戦国時代を味わうのにはいい土地だなぁ~って感じますね(一時期東京にも居ましたが『江戸城(皇居)』『平将門の首塚』くらいしかなかったですもん)。
今回の『長篠の戦い』はご存知の通り、進軍してきた『武田勝頼』と『徳川家康・織田信長』連合軍との攻防戦です。『桶狭間の戦い』の後滅亡した今川氏に代わり三河を中心とした地域を治める家康が、同盟を組む信長と共に、軍を進める武田を迎え撃つという流れになっています。当時、三者それぞれの立場がどうなっていたか?から見ていきましょう。
武田勝頼
武田家当主の勝頼は、伝説的な武将である父『武田信玄』を2年前に亡くし家督を相続していました(何かの運命なのでしょうか、信玄が亡くなったのもこの長篠の地から引き返す途中です)。「甲斐の虎」と呼ばれ戦国最強の名将であった父の病死により突然後継者となった勝頼ですが、偉大過ぎる先代の影響だったり側室(侵攻した敵将の娘)の子という血筋もあり、スムーズな継承とはいかなかったようですね。参考までに、勝頼は四男ですが、嫡男は父の暗殺計画が発覚し自害、次男は盲目、三男は若死にしています。
そんな状況に置かれていても、強硬な姿勢を崩さず信玄を凌ぐほど領土を拡大させていました(「愚将」は俗説かと…)。
徳川家康
15年前の『桶狭間の戦い』後に、今川氏の支配から逃れ故郷の岡崎城で独立し統治を始め、西に隣り合う織田信長と手を組みます。一揆を鎮圧して岡崎周辺の不安要素を排除した上で三河地区を平定、今川氏が没落する頃に浜松のある東方面へ進出し、以降武田とは領土をめぐり対立しあう関係となっていきました。ここで一大事が発生!(まぁ、家康の人生いつまでも大変なことだらけなのですが…)。信長との関係を悪化させた足利将軍が、全国の大名に『信長包囲網』の指令を下します。それに呼応したあの圧倒的強さを持つ信玄自らが、家康の領内に侵攻を開始。なすすべもなく大敗した家康。その時の自身を諫めるために描かせたものが『顰像(しかみぞう)』として伝わっています(上の写真の元の肖像画です)。
ところが、この直後に信玄は急死。退却した武田の動向を探る(信玄の死は秘密にされていた)ため長篠城を取り戻したことが、今回の『長篠の戦い』へと繋がっていくのでした。
織田信長
家康の項でも書きましたが、直前まで『信長包囲網』で四方を敵に囲まれ絶体絶命のピンチに陥っていました。…が、最大の不安要素であった信玄が病に倒れ武田軍は撤退、なんとか危機的状況を乗り切る事となります。信玄の上洛(西上作戦ですね)目的は諸説ありますが、そのまま生きていれば三河平定を皮切りに天下統一に邁進しただろうと言われています。その後、信長は取りまく敵対相手をことごとく潰しまわります。将軍を追放し、北近江の浅井氏と越前の朝倉氏を打ち破り、長島一向一揆を殲滅して、勢力を一気に拡大させることに成功しました。
勢力
信玄が亡くなる直前であれば織田と武田の力関係は拮抗していたと思います(包囲され兵力を分散させていた織田側が不利かも?)が、その後の信長の目覚ましい飛躍(東美濃や東遠江を攻略していた勝頼以上)により両者の差が開いてしまったことは否めません。もし、信玄が死ななければ…。歴史に「if」はないと言いますが(実際、信長と信玄の直接対決はありませんし、両者がお互いをどう意識していたのかは定かではないですが…)二人が戦っていたとすれば、日本はまったく別の道を歩んでいたでしょうね。
いずれにせよ、織田と武田が戦う運命は、信玄が倒れたこの長篠の地で2年の月日を経て再燃することに…。信玄の死後、徳川が掌握する長篠城を奪還するため、勝頼は受け継いだ武田軍を統率して三河へ侵攻。1万5000の兵で奥平隊500人が守る長篠城を取り囲みますが、二つの川と断崖絶壁にその襲撃を手こずらされてしまいます。
鳥居織田徳川奥平武田武田
同盟関係の信長は、30000の大軍を引き連れて岐阜城を出発。一方、武田軍の猛攻に耐えていた長篠城守備隊は、食糧庫を焼かれて落城のピンチ! 緊迫した事態の中、家臣の『鳥居強右衛門』が身を潜めて家康のいる岡崎城に救援要請を訴えに出かけました。
対峙
岡崎城に到着し織田徳川連合軍が出陣態勢を整えたのを確認した鳥居は、早急にこの現状を伝えるため長篠城に引き返します。ほぼ一昼夜で往復100kmですよ(川に潜って脱出してるし、平坦じゃない道だろうし、山の峰で狼煙あげてるし、休みなく引き返してるだろうし、凄いペースですよね?)。しかし、たどり着く直前で武田軍に捕縛。「援軍は来ないから、諦めて城を明け渡せ」と報告するよう強要させられますが、実際には「数万の援軍が到着するから、あと二日持ちこたえよ」と命をかけて仲間を鼓舞させる真実を知らせます。武田軍を怒らせた鳥居は、即座に磔にされて槍で殺害…(長篠城の前の国道を通ると、この磔の絵にドキッとしますよ)。織田徳川連合軍は手前の設楽原に布陣し、天然の川を堀とし馬防柵と土塁を築いて武田軍の騎馬隊に備えます。余談ですが、戦国時代にサラブレッドは居ないので馬といってもポニーみたいなヤツです(時代劇のカッコいい感じではないので、お間違えなく!)。
信長としては、家康の援軍として武田軍を(壊滅させる必要はなく)長篠から退陣させるのを目的としているので、こういう守備的戦術を採用したのだと思います。数的優位とはいえ、まともにあの戦国最強の騎馬軍団を相手にしたら厳しいですからね(攻略できずにいる長篠城を諦めてくれればいいだけのことですし…)。ただ、家康の立場だと「織田軍がいるこの状況で武田を叩き、今後の領土計画を優位にしておきたい」とは思っていたはずです。一方、徳川だけでなく織田の援軍到着を知った武田陣営は、軍議を開いた上で戦いに挑むことを決定します。昔からの重鎮の撤退意見を拒否した勝頼には「信長との国力差が開いてしまう前に一戦交えたい」という焦りがあったんでしょうね(現に信長の天下布武まで、残すは大坂の石山本願寺くらいになっていました)。長篠城包囲を3000の兵に任せた勝頼は、本陣12000を率いて設楽原で連合軍と対峙します。なんだか、家康の思惑通りの流れに…。
決戦
連合軍のこの戦いの目的である長篠城救援へは、家康家臣が先導する4000の別働隊が向かうことになりました。対面する主力部隊を大きく迂回し敵の砦に奇襲をかけ、待望の救出を成し遂げます(鳥居の死が無駄にはならなくて良かったなぁ)。
決戦の地、設楽原では、武田軍が柵の中に籠る敵勢に攻撃を仕掛けました。果敢に斬り込む騎馬隊でしたが、馬防柵で守られた足軽が撃つ鉄砲の弾を容赦なく浴び突破することができません。引き寄せ狙いを定めて放たれる銃弾の前に、次々に倒れていく武田の兵…。その中には武将である指揮官や重臣・家老までもが含まれていました(結局、敗走中にも多く討ち取られ、その数10000超)。こうして消えてしまった人材の損失(武田四天王のうち3名もが戦死など)こそが、後の武田家滅亡を招いた大きな要因になってしまいます。
酒井忠次塙直政佐久間信盛丹波長秀羽柴秀吉滝川一益石川数正本多忠勝榊原康政大久保忠世奥平貞昌徳川家康織田信長河窪信実武田信豊馬場信春小幡憲重土屋昌続武田信廉内藤昌豊穴山信君原昌胤山県昌景武田勝頼
信長の用意した大量の鉄砲を持つ足軽隊を中心としたこの戦術は、絶大な効果を発揮し武田軍を圧倒。一騎打ちの時代(武田信玄も上杉謙信と一騎打ちしてましたね)から集団戦へと、その節目となった合戦となりました。ついでながら…。足軽隊をキッチリ3列に分け、次に鉄砲を撃つまでに時間がかかる欠点を『三段撃ち』で克服した話が有名ですが、あれは創作であって現実には片っ端から撃ちまくっていただけのようですよ。
長篠で織田徳川連合軍に完敗した勝頼の最大の失敗が、3年後に起きた越後上杉謙信の後継者問題でした。内紛する家督相続の支持を見誤った結果、東に接する後北条氏とは対立する関係となり周りが敵だらけに…。広げ過ぎた領土の一部の欠落が国人衆の動揺を誘い、その後離反を相次いで引き起こすことになります。『長篠の戦い』から7年、最期に勝頼に付き添うお供が100人足らずという哀れな境遇の中、武田家は滅亡という結末を迎えました。