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会津戦争


会津藩士が明治新政府軍と戦った『会津戦争』を解説していきます。『鳥羽・伏見の戦い』から『箱館戦争』まで続いた『戊辰戦争』の局面のうちの一つで、現在の福島県会津若松市にある『鶴ヶ城』を中心とした戦いですね。

日本史に全く興味がなかった私がまだ十代の頃(随分前…)の話なのですが、日本テレビの年末時代劇『白虎隊』に当時かなりの衝撃を受けたのを覚えています。番組内容までは記憶にないのですが「日本って物凄い修羅場をくぐり抜けてきたんだなぁ」と驚きましたね。その舞台が、この『会津戦争』。そこから、幕末だけは好きになって、『坂本龍馬』とか『新選組』とか調べて史跡を訪ね歩いたり…(それ以外の年代には、相変わらず興味なかったのですが…)。

あと、会津といえばNHK大河ドラマ『八重の桜』もやってましたね、見ましたよ。最高に素晴らしい出来でした、前半までですが…(やはり、会津戦争までかな。後半は学校設立とかそんな話だったので…)。
会津戦争
日本人って『滅びの美学』を求めてしまう人種なんでしょうかね?死を承知の上で厳しい現実を選択して、その散り際の美しさに対して愛しさや切なさを感じてしまう…。史実を知っているからなのか「段々と後がなくなって追い詰められていく」場面では、やりきれなく心苦しくも見入ってしまいます。『八重の桜』での『鶴ヶ城』に砲弾が撃ち込まれるシーン…、痛々しくて泣きそうでしたよ。

背景


何といっても発端は、会津藩主『松平容保』の京都守護職就任です。家臣から「尊王攘夷派志士達の動乱が続く京での治安維持の任務は、敵対視され危険で財政的負担も大きいのでやめて欲しい」と嘆願されるも、「会津藩は何があっても将軍家を補佐する立場」と幕府からの要請を引き受けてしまいます。私も『八重の桜』を見ていて「そんな割の合わない仕事、断らなきゃダメだよ」と思ったものです(まぁ、結果が目に見えてますからね…)。容保自身もリスクは自覚していたようで、家臣とともに「京都を死に場所にしよう」と覚悟を決めてたみたいですけど…。

そもそも会津藩ってのは、徳川家康の孫を祖とする親藩で将軍の親戚一門という立場。更に、会津松平家には『会津家訓十五条』という掟が代々伝承され、一途にそれを守り通すという家柄。「徳川家に忠義を尽くす」という第一条を藩の基本方針としていたので、京都守護職を拒否できない身の上だったんですね。皆「ならぬことは、ならぬものです」と辛抱強く育てられますし…。
会津戦争
黒船来航での沿岸防備、桜田門外の変での水戸藩討伐反対の調停役…などをこなしてきた容保は、ついに天命である、治安が悪化した都の警護に取りかかるのです。

京都守護職


京都では、あの新選組を配下に組み入れ忠実に取り締まりの職務をこなしていきます。その結果「会津を最も頼りにしている」と述べられるほど天皇に信用していただけたのでした。ただ、京を守るということは変わりゆく時代を抑えこむという意味なわけで…。会津藩が熱心に仕事をすればするほど、変革へと突き進む潮流と逆行していくことになってしまうのです。

その頃、下関海峡では、長州藩が攘夷の実行として外国船を砲撃しています。
会津戦争
天皇から信頼をえた容保がいる京では、そんな過激な攘夷志士達に感化された公家を一掃すべく、薩摩と手を結んで『八月十八日の政変』を画策。このクーデターの成功こそが、会津が都から追放される長州の恨みを受ける決め手となってしまうのです。ちなみに、容保が生涯身につけ続けた宸翰をいただいたのは、この時ですね。

当然、納得できない長州藩は主導権回復を狙い武力をもって『禁門の変』を起こしますが、天皇に思いを伝えることができず玉砕。
会津戦争
結果的に、敵対した会津藩への遺恨を更に深めることとなり、以降ずっと容保は長州にとっての目の敵になるのです。

薩長同盟


その後の長州藩は、会津藩お抱え部隊である新選組に志士達が寺田屋で討ち取られたり、外国列強四国から報復攻撃(これで、外国を打ち払う攘夷が無謀だと気付きます)されたり、幕府からの長州征伐を受けたり…。第二次長州征伐があろうかという時、孤立し武器も調達できず窮地に立たされた長州がとった最後の秘策が、薩摩との同盟でした。薩摩としては、有力諸藩への影響力を保持したいため二次征伐に抗議してましたし、長州の次は自分達が攻められるのではないか?と疑っていたので、長州を助けるのは妙案ではありました。ただし、先の政変と禁門の変では敵同士、お互い簡単に合意するわけがありません(長州にとって、会津と同じくらい薩摩も憎いはず…)。そこに登場したのが、坂本龍馬。
会津戦争
あの人柄で『薩長同盟』を成立させてしまったという流れですね。

この同盟こそが、長州藩を蘇らせる起死回生の一打でした!イギリスから(薩摩経由)の戦力強化で、第二次長州征伐は幕府軍不利(武器性能の差)。さらに、徳川家茂が大坂城で病死したことで、長州藩の勝利が確定します。これで幕府の弱体化が露呈することとなり、時代は加速度的に移り変わっていくのです。しかも、この直後、天皇も崩御されています。

倒幕


長州藩の方針転換(尊王攘夷→倒幕)と同様、薩摩藩もイギリスからの(生麦事件の)仕返しを受け外国の強さを理解してましたし、公武合体策も行き詰まっていたので「外国勢力と渡り合うために、幕府を倒して天皇が統治する強い国家を作る」路線(公武合体→倒幕)へと変更します。ここでやっと、薩長両藩の思いが『倒幕』という形で一致したのです。

威信に陰りが生じた幕府は『大政奉還』を実施し、まずは衝突を避けようとします。それでも最大勢力である徳川が主権を握れるだろうという勝算だったのですが、新政府設立を宣言した『王政復古の大号令』でその目論見は消え失せることに…。ただ、将軍職が廃止されたとはいえ、依然、力は保持したままの旧幕府。武力で決着をつけたい薩摩藩は、徳川側から戦争を仕掛けさせるため江戸での挑発行為を繰り返し…。そうして始まったのが『鳥羽伏見の戦い』ですね。新政府は『錦の御旗』を立てて官軍である立ち位置を誇示、賊軍となった旧幕府側は負けを重ねて遂には敗走してしまいます。

その後、維新政府は徳川と容保を朝敵とした追討令を下します。天皇のために働き頼りにされていた容保としては「そんな汚名を着せられるなんて…」という気持ちになったでしょうね。ただ、今はもうその当時の天皇は亡くなっているわけですが…。

江戸は無血開城し徳川は謹慎となりますが、それで収まらない新政府軍の怒りは朝敵である容保へと向けられます。
会津戦争
京都守護職で倒幕派を弾圧した会津への恨みは大きく、新政府は賊軍として討伐する意向を表明。攻撃の的となった会津藩は藩内の主戦派の意見もあって徹底抗戦を決意、会津戦争へと突入していくのです。

奥羽越列藩同盟と会津


旧幕府側か新政府側か、どちらにつくのか?会津藩に同情的な近隣の諸藩は薩長中心の新政府に反発して『奥羽越列藩同盟』を樹立します。この列藩同盟により会津以外の地域も戦場になっていくのですが…。そこでは近代兵器を装備する官軍が圧倒的優位に戦いを進め、諸国は苦境に陥ることとなります。

容保周辺では、まず国替えで藩主がいなかった白河城に会津藩家老が入場。…が、すぐに新政府軍により占領されてしまいます。その白河城での攻防は二ヶ月以上続くのですが、隣の棚倉城の落城と新政府軍の増援により、結局奪還はできずじまい…。やがて、二本松城も落ち、これによって会津若松への進軍ルートが打ち開かれてしまいます。新政府軍は会津盆地に通じる守りの薄い母成峠に兵力を集中し攻略、そのまま一気に鶴ヶ城へと突き進むのでした。

官軍官軍官軍会津会津家老容保同盟同盟

母成峠以外の戦線に主力が出ていたため鶴ヶ城下の人々は大混乱となり、5000人もの群衆が城内に集まったといいます。そんな状況下で、家老など家臣の女子どもが足手まといにならないようにと自刃する不幸も起きてしまいました。

白虎隊


『白虎隊』の悲劇も、この時の出来事…。藩士の子弟を編成して作られた少年部隊のひとつが『白虎隊』です。城内の予備兵力であるはずの彼らにも、官軍を迎え撃つ出陣の任務が与えられます。激しい戦闘を終えて帰る途中の『飯盛山』。鶴ヶ城の様子を見て「落城してしまった!間に合わなかった!」と絶望してしまうことに(この時見ていたのが、さきほどの大混乱の鶴ヶ城です)。
会津戦争
「帰る場所がなければ自刃するしかない」と、20名の白虎隊士はお互いの胸を刺し討ち果てました。そのうちの一人が村人に助けられ、この話を後世に伝えていくのです。

降伏


やがて戦いは、鶴ヶ城をめぐる籠城戦になりますが、兵力と武器の差で会津に勝ち目はありませんでした。1ヶ月の激戦に耐えていましたが、列藩同盟諸藩の陥落が相次ぎ孤立化。容保は降伏を決意し、会津藩はついに敗北を認めるのでした。その後、戊辰戦争の舞台は箱館へと移っていきます。

こんな歴史があるからか、長州と会津の間では150年以上たった今でもお互いに因縁があるようで…。山口と福島の出身同士での結婚は、承諾されないみたいですよ。
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