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  • 徳川家康 47%
  • 豊臣岩盤
    勝利を掴み取れ
    諦めるな
    最後の意地を見せてくれ!
  • 最期の総仕上げ
    大軍を使ってひねり潰してやる。
    この際、トドメを刺しちゃってください

大坂の陣


豊臣家が滅んだ『大坂の陣』を取り上げてみたいと思います。よく知られてるように『冬/夏』があり、先に『冬の陣』→ 半年後の『夏の陣』と2回の抗争を経て決着。時期的には、家康が強大な権力を手に入れた『関ヶ原の戦い』から14年後の出来事で、日本の合戦では歴代ナンバーワンの規模(豊臣軍10万、徳川軍20万)の武力衝突でした。

ちなみに『大』→『大』になったのは明治維新前後なので、この記事ではもちろん『大』としています。

背景


『大坂の陣』が起こったいきさつとしては、「徳川政権の中で豊臣家をどう扱っていくのか?」という厄介な懸念がくすぶり続けていたいう経緯があります。『関ヶ原の戦い』での勝利は『反家康勢力』を倒したのであって、力が弱まったとはいえ『豊臣政権』は依然として継続してたわけです。2つの政権が並立(二重公儀体制と言うらしい)していれば、いつかは衝突してしまうのは当然ですよね。
大坂の陣
豊臣家を受け継いでいたのは、秀吉唯一の遺児である『秀頼』。秀吉57歳での子で、秀吉が死んだ当時はまだ5歳、関ヶ原のときでも7歳という年齢でした。秀頼ももう少し早く生まれていれば(または、その前に生まれた53歳での子『鶴松』が3歳で病死しなければ)違った方向に進行していったんでしょうが、さすがに幼過ぎて天下を平定するにはちょっと辛いかと…。そんな頃、徳川秀忠の娘『千姫』(7歳)と結婚(お互い若過ぎでしょ!!)。

最初は秀頼の官位など豊臣家を別格な扱いで配慮していた家康ですが、息子の秀忠に将軍職を譲った頃から「今後、徳川の家系で天下を治めていく」という情勢へと変化。「秀頼こそが天下人である」と一途に思う生母『淀殿』にとっては、そんな展開が許せなかったようです。

淀殿


豊臣家の実権を握っていたのは、幼い秀頼ではなくて母親の淀殿でした。この『大坂の陣』も、『淀殿』vs『家康』の戦いであるとも言えます。

淀殿は、戦国時代の女性としては人一倍知られた人物でかなり波乱な人生を送っています。『織田信長』の妹『お市の方』の娘で三姉妹(『茶々』『初』『江』)の長女(この当時は淀殿ではなく、まだ茶々です)。父親の『浅井長政』は母の兄『信長』に討たれ、やがて『本能寺の変』後に母が再婚した『柴田勝家』に伴い北陸へ行きます。…が、そこでも今度は勝家が秀吉に敗れ、母親の『お市の方』は夫と共に自害!秀吉に引き取られた三姉妹のうち『茶々』は秀吉の側室となり、後継者である秀頼を生み『淀殿』と呼ばれ秀吉亡き後の豊臣家を一身に担う立場となりました(三女の『江』は徳川秀忠に嫁ぎ、娘が前述の『千姫』です)。

茶々お市勝家秀吉浅井信長秀頼

大坂城の西の丸に天守を作った(屏風絵として残っています)家康は、そこで政務を執っていました。同じ場所に2つの天守閣があること自体、かなりいびつな光景ではあります。秀頼が天下人だと確信している淀殿にとっては、そういった現実や年賀の挨拶とか秀頼と対等以上に扱われる家康の地位を受け入れるはずもなく、秀忠将軍就任会見の要請などを拒否し常に反発した態度をとり続けます。

家康は豊臣家を一大名として生き残らせようとしていたのでしょうが、淀殿としては「服従はしない!」と長い間対抗していました。そうした頑なな姿勢を周りが何とか説得して実現したのが、京都での家康・秀頼の会見。実際に会ってみて「秀頼の若さ、やばい!」と感じた家康(自分はもうすぐ死ぬ年齢なのに対し、秀頼は人生これから…)。この面会の後、豊臣家に近い戦国武将達が相次いで亡くなったことをキッカケとして、家康は孤立した豊臣家を滅ぼす方針へと舵をとります。

こうして両陣営が合戦への準備を始める中、『方広寺鐘銘事件』が発生。「国家安康」「君臣豊楽」の文字が「家康の字を2つに切り裂き呪い、豊臣が主君になる」意味だと豊臣家への言いがかりをつけます。『片桐且元』らを派遣して家康に弁明するも、逆に内部に疑心暗鬼な状態を生み出され交渉は決裂。『大坂 冬の陣』へと突入していくことになりました。

冬の陣


いよいよ『冬の陣』です。豊臣方には、味方になる大名は居なかったのですが、秀吉が遺した莫大な資金があったので一旗上げようとする浪人達を集めることができました。また、お金だけではなく、関ヶ原のときに御家取り潰しにあった『長宗我部盛親』『真田信繁』『毛利勝永』『明石全登』といった歴戦のつわ者達も雪辱を果たそうと参戦。総勢、10万。

対して、家康の元には全国の大名が結集、その数は20万にもなりました。秀吉が小田原攻めをしたときと同じ最大兵力数(どちらも天下統一への総仕上げの合戦ですね)。ちなみに『関ヶ原の戦い』は両軍合わせても20万にはならないので、この『冬の陣』の方が圧倒的に規模は大きいです。
大坂の陣
統率された軍隊の集まりである家康軍とは異なり、豊臣方は目的も考え方も皆バラバラ。豊臣への恩義を忘れない武士もいれば最期死ぬ場所を求めて参戦する者や戦いに憧れて入って来るヤツも居たりと、足並みは揃ってなかったようです。

開戦前まで豊臣方に尽力した『片桐且元』の後を引き継いだ『大野治長』は『淀殿』(乳母が治長の母なので、二人は幼馴染)と、「城の外まで積極的に軍を進めて、徳川軍を迎え撃つ」主戦派意見を否定し籠城策を採用します。この『大野治長』、実は『淀殿』と男女関係があったのではないか?と噂されています。秀吉の妻の中で淀殿にだけ子どもができたこと。秀頼が秀吉に似ず大柄(治長似)だったこと。なぜ治長が最後まで淀殿に尽くしたのか?確かに、怪しいですよね…。

真田丸


『大坂 冬の陣』といえば、やはり『真田丸』ですよ(NHKの大河ドラマのタイトルにもなったくらいですから…)。大坂城籠城を決めた豊臣軍にとって攻め込まれやすい南側(他の方角は、海・川・沼地で守られている)、そこに『真田信繁』は意図して出城を作ります。「あえて敵中に陣を構えて、迎え撃つ」、それが『真田丸』ですね。
大坂の陣
真田の家紋は、三途の川を渡る船賃の『六文銭』で「いつでも死ぬ覚悟をもって戦う」ことを表しているそうです。しかも、大坂の陣での真田軍は『赤備え』でド派手。目立つ格好にふさわしく、前線でも勇敢に戦い活躍しました。

両陣営の布陣図は、以下の通り。秀吉の築城した大坂城は今に比べて格段に広いので、豊臣方は散らばって見えますが、城内に陣を構えて籠城している陣形になっています(真田軍だけ少し外)。

豊臣秀頼徳川家康徳川秀忠真田信繁前田利常井伊直孝松平忠直藤堂高虎伊達政宗織田頼長後藤又兵衛堀田盛重中島氏種大野治長長宗我部盛親片桐且元塙直之速水守久蜂須賀至鎮大谷吉治木村重成明石全登毛利勝永大野治房浅井井頼南部信景毛利秀就浅野長晟山内忠義松平忠明鍋島勝茂池田忠雄本多忠政立花宗茂池田利隆竹中重門上杉景勝佐竹義宣真田信吉丹羽長重酒井家次南部利直本多忠朝九鬼守隆山崎家治

兵糧攻めなどを目論み時間をかけて慎重に包囲する指示を出していた家康でしたが、豊臣側の挑発に乗った部隊が『真田丸』周辺で無謀な突撃を開始。『真田信繁』の術中にはまった兵士達はことごとくやられ、多大な犠牲を出しました。

以降、徳川勢は心理戦を展開。夜通し雄叫びをあげさせたり、大坂城本丸への一斉砲撃を繰り返したり…。そのうちのひとつが『淀殿』の近くに着弾して複数の侍女が死亡。身近で起きた恐怖体験が「城の中にさえ居れば、危害は無い」という考えを一変させ、豊臣方を和睦へと方針転換させました。交渉の条件が、「秀頼・淀殿はそのままでいいから、大坂城の堀を埋める」という内容。秀頼は徹底抗戦を主張したようですが、結局は合意し停戦。家康は、取り決めである外堀の埋立工事に着工します。

夏の陣


家康は、合意内容の堀を「分担である外堀だけではなく全ての堀」と解釈(諸説あります)し、一切を埋め立ててしまいます。結果、大坂城は本丸のみを残して丸裸に…。策略家ですね。「一度停戦し、堀を埋めて大坂城を無力化した上で再度攻める」という筋書きを持っていたんでしょうね。豊臣家に対して進言した「大坂を捨てて他の土地へ国替えせよ」という要求が受け入れられないと分かると、家康は再び『大坂の陣(夏の陣)』に向けての準備を開始しました。

「今回は籠城戦ができないので勝つ見込みが無い」と、逃げだす者が多い豊臣方の兵力数は大幅ダウン。家康の企てで大坂城が無防備になり守りきれないので、布陣としては各武将が城から出て対決する『野戦』に決定。いくつかの場所での戦いはあったのですが、メインの戦場はやはり大坂城南側となりました。以下『夏の陣』最終決戦の図解です。冬の陣のとき家康本陣があった茶臼山に陣を構えた『真田信繁』は、ここからまた前回の真田丸同様、驚異的な働きを繰り広げていくことになるのです。

真田信繁明石全登毛利勝永大野治長大野治房徳川家康松平忠直本多忠朝小笠原秀政井伊直孝藤堂高虎前田利常徳川秀忠豊臣秀頼

前哨戦で『後藤又兵衛』『木村重成』『塙直之』といった有力武将を失っていた豊臣方は「前線に引き寄せ、その隙に裏をかいて大将の首を討ちとる」という逆転劇を狙った計画を立てます。…が、毛利隊が早々に先走り開戦し、次々と相手を撃破していくという事態に…。勢いは止められないと判断した真田隊も毛利隊に合流、徳川軍を混乱に落としいれて遂に本陣に肉薄(しかも、何度も…)。兵が逃亡し部隊の秩序が無くなっていく中で、家康はそのとき死を覚悟したそうですね。一方、秀忠の方も大野勢の猛攻を受け、同じように本陣にまで攻め込まれています。

徳川のトップを討ち取るしか勝算が無い豊臣方による命懸けの猛攻が、家康に切腹を決心させるまでの結果を生み出しました。…が、次第に落ち着きを取り戻した家康軍は、圧倒的兵力で押し返し形勢は逆転。信繁は、このとき茶臼山の麓の神社で討ち取られています。真田軍が壊滅すると豊臣方は総崩れとなり、最後まで奮戦していた毛利隊も大坂城内に撤退していきました。

この後は、秀頼も淀殿も自害し、豊臣家は滅亡。結局、秀頼は何もできずに終わってしまいましたね。前線に出馬する案も、淀殿の過保護で実現しませんでしたし…(最後、大野治長が出馬要請しに戻ったときには、タイミングが遅すぎました)。

徳川による江戸幕府を確立した家康は、このわずか1年後に亡くなっています。様々な出来事の中で耐え続けて長生きしたことで、念願の天下も手にできたんでしょうね。健康長寿って何よりも大事です!
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