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    副長ー
    土方ファン
    ラストサムライ

箱館戦争


『新政府軍』と『旧幕府軍』が対立した幕末~明治の『戊辰戦争』最後の戦いが、『箱館戦争』になります。新選組副長『土方歳三』が最終的に辿り着いたこの箱館の地で戦死したのは有名な話ですね。北海道にある美しい形状をしている『五稜郭』を奪い合う、そんな『箱館戦争』にスポットを当ててみたいと思います。

ちなみに『館』→『館』へと表記が変わったのはこの戦いの直後なので、ページの記事の時代はまだ『館』の頃です。

五稜郭


整然として調和のとれた『五稜郭』のあの綺麗な星形は、西洋の要塞の造形から採用され設計されました。巨大な幾何学的な物って(ナスカの地上絵なんかもそうですが)なぜか惹かれますよ!
箱館戦争
江戸時代末期、黒船来航後『日米和親条約』が締結され開港することになった箱館の新しい奉行所として作られた『五稜郭』、工事完了は『箱館戦争』の僅か2年前でした。星の外の三角形(半月堡って言うらしい)が1か所しかない(当初は5か所全部の計画)のは、予算削減と結局外国からの脅威が無かったから…。星の先端から銃器を構えることにより、死角なく2か所から敵を捕らえる構造になっています。

狙撃狙撃標的

衛星写真で上から見ると、こんな可愛らしい感じです。確かに、何処に居ても出っ張りの2か所から狙われ続けてしまいますね。いつまで経っても、狙撃者の攻撃から逃れられない標的…。

榎本武揚


『箱館戦争』は、幕府海軍指揮官『榎本武揚』がどう行動したかが、過程や成り行きを知るポイントになっています。

お父さんが、日本全国を測量して正確な地図を完成させた『伊能忠敬』のお弟子さん。本人は幕府直轄の学問所修了後、箱館に赴いたり樺太を視察したりと元々蝦夷地とは縁があったようです(箱館戦争後も、開拓使として北海道の資源調査をしたり樺太千島交換条約を締結したりしてます)。海軍伝習所の後、幕府の蒸気軍艦発注と共にオランダ留学。そのまま竣工した開陽丸の艦長になり、鳥羽伏見の戦い後に海軍副総裁、江戸無血開城の頃には旧幕府艦隊をまとめる立場に…。

本来ならば、新政府に軍艦を引き渡さなければいけないのですが、それを拒否(4隻のみ引き渡し)して主力艦を手中に確保。そんな榎本に、奥羽越列藩同盟からの支援要請が入ります。ただ、艦隊を引き連れて仙台に出かけるも、到着した時には諸藩は投降済み(この時『土方歳三』と合流)。行き場が無く膨れ上がって集まった旧幕府軍救済のため、次に蝦夷地開拓(蝦夷共和国設立)を画策し、箱館北部に上陸!『箱館戦争』に至ります。
箱館戦争
旧幕府軍は、蝦夷地の残存兵力を一蹴して平定に成功、箱館政権を樹立(日本初の選挙により、榎本が総裁に)。そんな中、主力軍艦の開陽丸が悪天候により座礁沈没(救援にむかった船も二次遭難)。新政府軍より優位だった海軍力が縮小、今後の戦局に大きく響いていくことになりました。

新政府軍攻撃


当然、新政府側は旧幕府勢力による蝦夷地開拓を認めるはずはなく、箱館奪還に向けての準備を進めます。ただし、冬の北海道で戦うことはせず雪解けを待った後、日本海に面した乙部を上陸地点としました。すぐに江差を制圧し、箱館までの50km程を3方面に分かれて進軍開始。

そのうちのひとつ『二股口』は『土方歳三』が新政府軍を食い止めて守りきった場所としてよく知られています。おびただしい数の弾丸が飛び交い2週間に渡り熾烈な銃撃戦を繰り広げ防戦し続けましたが、他の2ルートが突破されて退路を断たれる形となり五稜郭に撤退するしかなくなりました。海沿いの経路では敵の艦砲射撃に反撃できず後退と、開陽丸を失い制海権を無くした影響はやはり大きかったようです。

土方歳三新政府新政府旧幕府旧幕府新政府榎本武揚

追い詰められ『五稜郭』周辺で戦う旧幕府軍(この『五稜郭』にも、軍艦からの艦砲射撃が届いたようです)。『土方歳三』は、孤立した弁天台場救出に向かう途中で狙撃され亡くなりました。多くの新選組の仲間の死を見続け、最後に残された自分の死に場所をこの箱館と決めていたのかも…。
箱館戦争
その後『榎本武揚』が降伏、『箱館戦争』が終わりました。新政府と旧幕府で対立し1年半続いた『戊辰戦争』も、これで終結となります。
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