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  • 信長の傲慢を許すな!
  • 死んでほしくない
    せっかくここまでやってきたのだから

本能寺の変


日本史上最大の謎である『本能寺の変』を扱っていきましょう。ご存知のように、家臣である『明智光秀』が 主君の『織田信長』を殺した事件ですが、今回は 首謀者である光秀が最期をむかえた その後の『山崎の戦い』までをまとめてみます。

ところで、なぜ光秀は信長を襲撃したんでしょうか?その理由は、参考資料が少ない(光秀との関係を示す都合の悪いものは、早々に処分されてしまったのかと…)ため 未解明であり、今もなお数々の殺害動機が推測され続けています。フィクションである小説などでは 突拍子もない筋書きの書籍が時折 発表されていますし、最近では明智の子孫(滅亡してないのか?)という方が執筆したものまでもが出版されました。

いずれにせよ『本能寺の変』の真相は分からないままなので、誰もが思いのままに想像できる余地が依然として残されているんですよね。この記事ではそういった中の代表的な要因を取り上げつつ 光秀が辿った動向を紹介していきますので、最後までどうぞお楽しみください。

決行前


まずは『本能寺の変』に至る、討たれてしまった側の信長の経緯を振り返ってみましょう。馬防柵と大量の鉄砲を使った『長篠の戦い』で戦国最強と謳われた騎馬隊を破った信長は、敵の武田軍を自らの後継者である『織田信忠』に攻め滅ぼさせました。
本能寺の変
余談ですが…。鉄砲隊を3組に分けて順序よく3段撃ちしたという話は創作で、実際にはただ撃ちまくっていただけみたいです。もうひとつ…。当時の騎馬隊の馬はポニーっぽい小さくて(120cm)丈夫な在来種なので、時代劇に出てくるような大きくてスラっとしたサラブレッドをイメージしてはいけません!

この時点の信長にとっては 『甲州征伐』で軍を任せた嫡男の信忠が立派に役割を果たしたこと、そして東国の大名達がほぼ恭順する姿勢を見せていたことで、まさに順風満帆の境遇にあったといえますね。

次に信長は「各方面の攻略担当武将を決め その軍団を各地に派遣する方針」をとり始めました。北陸の上杉には『柴田勝家』、中国地方の毛利には『羽柴秀吉』という感じで、各軍団長による全国平定を進めさせます。信長の片腕として様々な仕事をこなしNo.2のポストに就いていた光秀は、畿内に残って遊撃軍のような役割を請け負っていました

信長光秀秀吉毛利上杉勝家上杉滝川丹羽長宗我部

そんな頃、信長に 備中高松城を包囲している秀吉から、出馬要請(助けを求めるものではなく、水攻めの総仕上げを頼むもの)が入り込みます。援軍の先陣を務めるよう指示された光秀は、13000もの軍勢を揃え…。

20~30人の小姓のみを連れ本能寺に宿泊する信長。他の家臣達は地方を攻略中で、京都にいるのは自分だけ…。しかも、嫡男信忠も僅かな供回り(500名程)だけで 本能寺のすぐそばに滞在しています。突然、軍備を整えた光秀の前に 織田家を討ち取る千載一遇のチャンスが転がりこんできたのでした。「敵は本能寺にあり!」 用意した兵のすべてをそのまま信長のもとへと向かわせた光秀は、こうして 永遠のミステリーである『本能寺の変』を引き起こすのです。

動機


ここで、いくつかの要因を紹介してみましょう。信ぴょう性があるものから 捏造された作り話や単なる臆測まで 多種多様な仮説が入り乱れてますが、その一部を取り上げて書き出しています。
本能寺の変
突発説計画していたわけでなく、軍勢を出陣させる直前 親子とも討ち取れることに気付き実行した。
怨恨説信長による殺生によって、人質に出していた母親が殺されてしまったことへの復讐。
武田を滅ぼしたあと「我らが苦労した甲斐がありましたね」と発言した光秀で対して「お前が何をやったんだ」と皆の前で罵倒され、頭を欄干に打ちつけられた屈辱に対する憎悪。
家康の接待で、腐った魚の臭いに怒った信長に饗応役を解任させられた遺恨。
光秀の領土の変更命令問題(丹羽近江を取り上げ、まだ敵の領地である出雲石見へ)。
酔った信長に槍を突き付けられて脅され、酒を無理やり飲まされた私怨。
長宗我部が支配する四国の政策変更で、取次役である自分の面目を潰された恨み。
陰謀説朝廷が黒幕。朝廷に人脈がある光秀が「このままでは信長が天皇の上に立ってしまう」との公家達の気持ちをおしはかり決行。
足利将軍が黒幕。「室町幕府を再興させることが世の中を平和にする」と、以前仕えていた将軍の計略に乗せられた。
秀吉が黒幕。結果的に一番得をした秀吉が裏で動いていたのでは?という仮説。
家康が黒幕。秀吉と同じ趣旨です。ただし、家康自身がこの『本能寺の変』では命からがら帰郷したので、はっきり言ってこれは無いですね。
野望説「信長を討てば、天下は自分のもの」という野心を抱いたのかもしれません。光秀は『本能寺の変』直前に「ときは今 あめが下知る 五月かな」という歌を詠んでいます。その意味は「土岐出身の私が今、天下(あめ)を治めますよ」ということだとか…。
本能寺の変
ここに紹介できない説も まだまだ数多く存在するので、調べてみるのも楽しいですよ。私自身としては「それぞれの動機が、少しずつ積み重なった結果が『本能寺の変』を誘発させたんじゃないのかな?」と思っています。現実に自分の進路を決める要因って、ひとつじゃないですもん。色々な人々と一生懸命仕事して、辛い経験もあって、そんな時には「あいつさえ 居なければ!」なんて考えが頭をよぎりますよね。そしたら不意に、その相手を叩き潰せるチャンスが舞い込んできたという…。今までの関係すべてが脳裏に浮かび「やつを倒せば 後は思い通りになるはず!やるしかない!」と そこで決心したのではないでしょうか?

当日


午前4時、光秀は本能寺を取り囲みます(むちゃくちゃ朝早い!)。完全に寝込みを襲われた信長。そもそも大多数の兵で包囲しているので、この瞬間に光秀の勝ちは確定していました。「謀反?誰のしわざか」と聞く信長に「明智の軍」であることが伝えられると、光秀の用意周到さを悟り「是非に及ばず」と言い放ったそうです。死を覚悟して、自分の運命を受け入れたんでしょうね。

信長は、最初は弓 次に槍を手にとり戦いますが、やはり多勢に無勢…。数で圧倒され 火の手が迫る御殿の奥に引き下がり、その後 切腹して果てることになります。
本能寺の変
ドラマでは この時「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」(信長が好きな『敦盛』の舞の一節)と謡い舞って、激しい炎の中で朽ち果てるクライマックスをむかえますね。桶狭間の前ならともかく この本能寺でそんな余裕があったとは思えないのですが、テレビを視聴している側からすると最高にしびれるシーンなのは確かです!ちなみに『平敦盛』というのは、平家が滅亡していく中の『一ノ谷の戦い』で亡くなった16歳の武将です。その討ち取った源氏側の武将が葛藤した中で到達した心情が「人の一生は五十年ほど。天上の時間に比べたら夢や幻みたい…。命あるものはすべて滅ぶものだ」という『諸行無常』の境地だったのです(『壇ノ浦の戦い』の記事で紹介してあります)。

信長は自害しましたが、その遺体は見つかりませんでした。このことが、ここからの光秀に大きな影響を与えてしまいます。信長が生き延びてる可能性が残されているだけで、他の武将には「明智側に付く」という選択はできないわけですから…。もし、本当に信長が生きていたとしたら とんでもないことで、事実 明智に味方する武将はほとんど出てきませんでした。

織田信忠


光秀は遺体探しをあきらめ、続けて信長の嫡男信忠を攻めます。前もって信長と信忠ともに討てる情勢を確認していた(信忠が京都に居なければ『本能寺の変』はなかったとも言われてます)光秀は、なぜ 13000もの兵を分散したうえで二人を同時攻撃しなかったのでしょうか?その計画性の無さに、状況が揃って初めて謀反を決めた姿が見え隠れしませんか?

襲撃に時間差があったので、信忠としてはいくつかの手段が残されていました。ただ、その決断に時間がかかり、父親の信長を助けようと考えを固めた時には「すでに本能寺は陥落した」という情報が入り…。「逃げる」という思考が無い信忠(父親と織田家当主のプライドがなによりも大事だったのかな?)は、隣の二条御所に移動して光秀を迎え撃つことを選びます。
本能寺の変
ここで『安土城』か『大坂』に落ちのびていれば、信長は居ないにしろ まだまだ織田家は安泰だったはずなのですが…(後からみたら脱出できる可能性が高いと気付くのですが、当事者にはそういう情報はわからないんですよね)。

信忠に供回りがいるといっても、光秀の軍とはどうにもできない兵力の差があるわけで…。嫡男信忠も信長と同じように自害し、織田政権は崩壊してしまいます。ここに、光秀の天下人が誕生するのでした。

徳川家康


そんな中、家康は直前に信長と会っていて『本能寺の変』の時は、見物を勧められた堺にいました。お供は、34人の家臣のみ(名だたる凄いメンバーなのですが、なんにせよ この人数ではどうしようもありません)。「途中で土民に槍で突かれて死ぬくらいなら、京都のお寺で切腹する」という家康をなだめ、一行は『伊賀越え』へと進路をとるのでした。無事、三河に戻れるんでしょうかね?

光秀家康

落ち武者狩りに襲われてしまう他の武将も出る状況の中、家康達はなんと2日で三河に帰還できたのでした。伊賀出身の『服部半蔵』の存在が大きかったみたいですね。

中国大返し


いち早く、主君信長の敵討ちに動いたのは、秀吉でした。対峙していた毛利勢とすぐに和睦し、全軍30000人の兵を急いで京に戻らせます(この不可能ともいえる軍団移動のことを『中国大返し』といいます)。200kmもの距離をわずか10日で動かす(しかも大軍)その驚異的なスピードの秘密は、秀吉が得意とする人心把握術(金品を惜しみなくバラ撒き心を掴むなど)とキメ細かい兵站への気配り(先行して行う食料確保や物資運搬など)が大きく影響したといわれていますね。

秀吉は同時に「信長様がまだ生きている」という偽情報を流したりして、周辺の武将を味方に付けていきます。結果、明智軍と対戦する時点で兵数を40000人にまで増員することに成功。対する光秀の軍は16000なので、おおかた勝敗は見えたかな?という感じでした。

毛利秀吉光秀

両者は『天下分け目の天王山』の麓でぶつかりあい、その信長の弔い合戦となった『山崎の戦い』で秀吉は勝利します。敗北した光秀は、退却の途中で落ち武者狩りにあって絶命。短い期間の天下で俗に「三日天下」といいますが、実際には13日間でした。光秀を倒した秀吉の発言力はこれを期に一気に高まり、その後の全国制覇へとつながっていくのです。
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