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    3本の矢

厳島の戦い


戦国時代中期の『厳島の戦い』。その1555年は、武田と上杉が川中島で衝突し始め、若い織田信長(21歳)がまだ尾張で家督争いをしていた時代ですね。『毛利元就』58歳、『陶晴賢』34歳。『毛利』は知ってるけど『陶』って誰?…というレベルの人は多いのではないでしょうか?実際、私も同じです。

そもそも『毛利家』の出所は地方の国人領主でしかなく守護の重臣である『陶家』との身分の差は明らかなのですが、そこはやはり戦国時代!下剋上の世の中で名をはせた『毛利家』の方が際立っているのは確かですよね。時代劇等いろんなトコで『一文字三星』の家紋は目にしますし、しかも脈々と長州藩として幕末まで生き残り明治維新で活躍するたくさんの志士を輩出した功績もありますから…。そんな両者の先行きを決定づけた合戦である『厳島の戦い』を取り上げていきますが、その前に…。

皆さん、今回の舞台である広島の『厳島』には行ったことありますかね?その海上に浮かぶ朱塗の大鳥居と社殿の『厳島神社』は、まさに日本を代表する観光スポット。外国人にも大人気ですので、まぁ日本人なら一度は訪れておくべき場所だとは思います(私は数年前に『原爆ドーム』『大和ミュージアム』とセットで行き、堪能して帰ってきましたよ)。

原爆ドーム厳島大和ミュージアム

平家一族の繁栄(平安時代末期の『平清盛』の頃)とともに現在のような大規模な社殿が整えられ、平家の氏神になったとのこと。世の中が不安定になった戦国時代には荒れ果てますが、ここで紹介する『厳島の戦い』後、支配下に置いた毛利により復活を遂げ江戸時代からは参拝客で賑わったそうです。
厳島の戦い
「水面に映る姿が綺麗」「水との調和で心が和む」とか分かりますが、それでもあんな海の上に建てて「台風とか波とか塩害とか大丈夫なの」と思いませんか?実際、自然災害で、数年に1度倒壊するのを修復してるらしいです(壊れる前提で建てられている社殿だとか…)。

陶晴賢


それでは、影の薄い『陶晴賢』の方からいきますね。『陶』は(とう)ではなく(すえ)と読みます。『晴賢(はるかた)』は、当時西国で大きな勢力を持ち数か国を統治する有力守護大名の重臣の家系に生まれます。

イケメンだったので、その大名の寵童として可愛がられていたみたい…(ん?)。寵童ってのは、秘書や小間使いを兼ねた夜の男色のお相手ですね。戦場に女性を連れて行くわけにはいかない当時の戦国武将にとって、無くてはならない存在だったようですよ(うひゃ~)。

初陣は、後にライバル関係となる毛利家への援軍。その総大将として出陣し、見事敵の撃退に成功します。ただ、続く敵地への遠征では、無謀な計画や味方の戦意の低さといった理由で大敗してしまいました。

この負け戦で家督相続人である養子を亡くした守護大名は、軍事に興味を示さなくなってしまい文治派を重用し始めます。立場の無くなった武断派の晴賢は謀反を起こし、仲たがいする主君を自害に追い込み、お家の乗っ取りを達成。こうして守護としての実権を掌握し軍備強化を徹底していく最中に、その政策に反発する領主が現れて…。これが毛利家であり『厳島の戦い』へと繋がっていくんですね。

毛利元就


次に『毛利元就』です。先ほども書きましたが、安芸(今の広島県西部)の国人領主の次男として生まれています。

父の隠居で毛利の家督は兄である嫡男に…。その後の元就は幼くして母・父と相次いで死なれて、さらに家臣に所領を横領され移り住んだ城からも追い出されて『乞食若殿』と呼ばれるほどの貧しい毎日を送るはめになります。なんとか養母に救われ成長していった元就。
厳島の戦い
そんな時、家督を継いでいた嫡男が急死し、その息子(2歳)の後見人をすることに…。元就の父・兄と立て続けに当主が亡くなり、後を継いだ主君もまだ幼く家中が動揺する中、その緊急事態につけこんで領内に進攻する軍勢が…。主君の後見役としての元就(20歳)の初陣は、いきなり毛利家の命運を賭けた超重要な戦いとなるのでした。

このピンチに対しては、後に「西国の桶狭間」と呼ばれる劇的な勝利を掴むことに成功(信長の桶狭間は40年以上先)。討ち取った相手が旧守護職でもあったので『毛利元就』の名は世間に知れ渡るようになり、次第に智略で戦功を重ねる姿に毛利家中も信頼を寄せるようになっていくのでした。

結婚したのはこの頃、正室との間に3人の息子達が生まれています。後の『3本の矢』の話は有名ですよね。
厳島の戦い
「1本では折れる矢も、3本束ねれば折れない。これからは3人で一致団結するように!」という教えで『毛利両川体制』(次男三男は「川」の付く家の養子になります)をつくるうえでの基軸とされました。

…で、またしても当主が死亡(享年9歳)。いよいよ、後見役であった元就が、27歳にして毛利家の家督を継ぐことになります。婚姻関係での周囲との結びつきを強めながら戦による勢力拡大を進め、地位を確立していきました。この時期『吉田郡山城の戦い』で援軍に駆け付けたのが『陶晴賢』ですね。こうして勝利を重ね続け、元就は安芸国の中心的存在へと一気に登りつめていくのでした。

対立


キッカケは、陶晴賢が主君の実権を奪ったクーデターですね。当初の毛利元就は、陶に協調する同盟関係ともいえるような動きをして、勢力を急拡大させました。この時に、気難しい周辺の国衆達の心を掴んで安芸のリーダーとなったこともあり、次第に陶に迫る影響力を持っていきます。

徐々に二人の関係は悪化。危機感をもった陶は、元就を通さず安芸の国人衆に出陣命令を出しました。これが、両者を分かつ決め手となり『厳島の戦い』へと発展させてしまうのです。

兵力でいえば、陶軍が3万に対し毛利軍が5千です。ただ、元就は58歳の経験豊かな策略家。用意周到かつ合理的で巧みな駆け引きが、ここから炸裂していきますよ。なんといっても『日本三大奇襲』の一つですから…(あとの2つは『桶狭間の戦い』と『河越城の戦い』)。

合戦


ハッキリ言って、主役は『毛利元就』ですね(陶晴賢は、この戦いでは、ただのやられ役…)。合戦前、元就はいくつもの外交戦略や調略を仕掛けていますが、ここではあえて厳島だけにスポットをあてさせてもらいます。

そもそも、なぜ厳島が戦場になったのか…?それってのはやはり、兵力で大差をつけられた知将元就が考え抜いて練った計略からなのでした。平地でまともに戦ったら数がそのまま影響して、勝ち目はありませんから…。元就は「相手の大軍をなんとか狭い島に押し込め、思うように動けない状態にしたい」と構想し、陶軍を厳島におびきよせる策をいくつか企てます。
厳島に陶氏を裏切った武将を配置して相手を刺激する。
厳島を守る兵力がわずか500と「落としやすい」と思わせる。
「今、厳島を攻められたらピンチ」という噂を流す。
「殿が行った厳島での築城は失敗だ」と家来からの信頼がないように見せる。
重臣の一人に寝返る(上陸後に謀反)芝居をさせて、陶を騙す。
これらと同時に、勝敗の決め手となる村上水軍に「1日だけ味方になって」とお願いしています。

(忠告もあったようですが)見事に嵌められた陶は、総力をあげて厳島に殺到してしまいました。大軍を上陸させ、毛利の城を尾根側から取り囲み堀を埋め水源を断ちますが、日柄が悪いということで総攻撃を2日延期に…。

そんな中、元就は着実に進軍します。ギリギリになって強力な助っ人の村上水軍を仲間に引き入れることにも成功。「暴風雨で敵も攻めてこないだろう」と陶軍が油断する中、部隊を2つに分け上陸を強行します(村上水軍は海上で開戦待ち)。敵兵に遭遇してしまった時には堂々と「九州から加勢にきた」とごまかし、全軍が悟られることなく配置を完了させました(風と闇で、敵味方の区別がつかなかったようです)。

この時点で、大軍で身動きが取りづらい陶軍を、毛利軍が挟み撃ちするという陣形が完成します。しかも、狭い島で周りは海。退路を断つように村上水軍も待ち構えています。もう、勝負ありですね!

毛利毛利毛利村上

島内での戦闘開始を合図に、村上水軍が敵の船を焼き払います。居るはずのない毛利軍が突然現れ、陶軍は大混乱。元就の策略通り、大軍であるがゆえ指揮命令の統率もとれず皆が逃げ惑います。脱出する船もほとんどが既に無く、陶軍は壊滅状態と成り果てました。

一部は防戦し、周囲に放火をして時間稼ぎをします。追撃より厳島神社の消火を優先する毛利軍(エライ!)。消火を終えると、陶晴賢を追い詰めて自刃させました。守護の実権を奪ってから、わずか4年だったようですね。勝利を収めた元就は、遺体を島から運び出して血に穢れた土を削り取ったといいます(神聖な場所ですから…)。

その後の元就は大躍進。勢力を衰退させた陶の領地(周防・長門)へ侵攻し3か国の大大名へ…。さらに、敵対していた他の大名も滅ぼして、中国地方8か国の領主にまでのし上がりました。『厳島の戦い』の時点で58歳ですからね、すごいバイタリティですよ、ほんと。
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