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川中島の戦い


越後の龍『上杉謙信』と 甲斐の虎『武田信玄』が熾烈な争いを繰りひろげた『川中島の戦い』です。誰もが知っている両雄同士!一体どんな合戦だったのでしょうか?

どちらも戦国最強の呼び声高く、いつの時代も人気を二分する両者。ライバル同士として有名なんですが、意外にも謙信の方が9歳も年下だったりします。12年にも及ぶ『川中島の戦い』の初戦では『謙信』は23歳の若者でした。…とはいっても、初陣が15歳ですので、すでに中堅の域に達していたと言えますかね。

ちなみに、龍と虎は、実力が拮抗する二人の英雄を表現するたとえですが、謙信を「越後の虎」、信玄を「甲斐の龍」と どちらの龍/虎のペアを使ってもいいようです。謙信と改名するまでは、長尾虎千代→景虎→上杉政虎→輝虎と、すべてに虎の字が入っているので「越後の虎」の方がしっくりくるのですが、なぜか逆が一般的ですね(上杉軍総攻撃時の『龍』の旗が由来っぽい)。
川中島の戦い
今の『川中島』の位置は 善光寺や長野駅のちょっと南側の 犀川と千曲川に囲まれた三角地帯にありますが、昔はもっとずっと広いエリアを『川中島』と呼んでいたそうです。となり合った領地を持つ信玄と謙信が必然的に出合い、互いに衝突する地となったのがココでした。

1次2次3次4次5次

最大級である第四次の合戦を中心に、5回に渡る両陣営の対立の総称を『川中島の戦い』と呼んでいます。それぞれの位置を図解しておりますが、本陣同士の大きな決戦にまで発展したのは 第四次だけといわれてますね(ほかは、局地的な戦闘 や 対峙 をした後に両軍退却)。

上杉謙信


それでは、若い方の『上杉謙信』から紹介してみましょう。戦国時代中期、一族の拠点である越後の春日山城(新潟県上越市)で、長尾家の末男として誕生。守護に仕えて補佐する地位の長尾家は、守護代から昇り詰めて戦国大名になる下剋上の代表的な家柄ですね。側室の子である謙信は寺に預けられ、そこで城郭模型を使い戦術シミュレーションなどをして遊んでいたといいます(凄い子どもだな…)。相手の心理を先読みした戦略をたてるなど 戦い上手だと言われるのには、そういう原点があったんですね。

父から家督を譲られた長兄には人望がなく、家臣団をまとめきれず 越後は混乱します。そんな中、謀反の騒ぎで謙信自身、殺害されそうに…。一緒にいたひとつ上の兄の方はその場で討ち取られましたが、謙信は床下に隠れ難を逃れたみたいです(まるで ホラー映画の設定、絶対トラウマになっただろうな)。後に謙信(19歳の頃)が実力を見せ始めると、守護の調停により長男から正式に家督を相続し春日山城に入りました。そして、跡取りのない守護が亡くなったことで、謙信は守護代行をまかされ越後国主となります。
川中島の戦い
血判状を判定すると、血液型はAB型とのこと(そんなこともわかるのか!)。宗教的な考えで、生涯独身。また、毎月決まった日に腹痛をおこしていたので、実は女性だったのではないかという噂もあります。確かに、漫画や小説・ゲームなどでは「謙信女性説」を採用してたりしますよね。まぁ、信憑性に欠ける説なので男だとは思うのですが、どことなく中性的なイメージを感じてしまうところが謙信の魅力なのでしょう。

毘沙門天を深く信仰し、自分をその武神の生まれ変わりだと信じていました。本陣の旗印も、ご存知の通り『毘』です(家紋よりコッチの文字の方をよく見かけるかな)。
川中島の戦い
戦国最強の武将と言われて『軍神』と呼ばれています。実力がありながらも侵略的な戦争はせずに、義を重んじる英雄として神格化されたんでしょうね。そうした慈悲に満ちた個性が「敵に塩を送った」エピソードにもあらわれているのだと思います。

謙信の70回もの合戦の中で、大きな戦いでの敗戦は一つもない(生涯での敗戦は数回のみ)というから驚異的です。しかも、周りは武田軍をはじめとして強敵だらけ。国内も政情不安だったりしたのですが、他国から救援を要請されると断ることなく秩序回復のために幾度となく多方面へ出兵していました。ゆえに、遠征(移動の労力が必要)が多く地の利を得にくいのですが、それでも謙信は負けなかったようですね(引き分けも4割くらいと多いですが…)。
川中島の戦い
強い上杉軍であれば 領土が広がりそうなものですが、元々そういう欲は無く、謙信が越後へ引き上げた途端 救われた国衆は相手方へ寝返ってしまうということを繰り返していたみたいです(戻った後の冬場は、雪の影響で出陣できませんし…)。

ちなみに『第二次 川中島の戦い』後、相次ぐ家臣同士の領土争いで心身疲れ果てた謙信は、隠居出家するために一人で高野山に向かっちゃっています(説得され帰国、その後 越後を統一)。また、関東諸将の求めに応じて関東に侵攻、鎌倉も占拠して小田原城を包囲。この時に関東管領職を相続して上杉姓となりました。続いて、今度は信玄に対する信濃諸将の要望で越後に引き返し、最大規模の『第四次 川中島の戦い』の陣頭指揮を執ることになるのです。

武田信玄


そして、年上の方の『武田信玄』です。謙信に引けを取らないほどの名将だと言い伝えられています。家柄としては、源氏の血を継承し甲斐の守護を担う名家なので、謙信より格は高いことになりますね(関東管領を謙信が譲り受けると、地位的な立場は逆転しますが…)。

まず、21歳でワンマン社長気質の父親を締め出し(娘に会いに行った機会を利用して追放)統治をスタートさせました。「率先して自らの領土を拡大するために戦いを繰り返す」という方針(要求されて出ていく謙信とは逆)をとり、急速に勢力を伸ばしていきます。
川中島の戦い
戦績としては、謙信とほとんど同率(70回程度戦って敗戦が数回)ですね。「戦いは五分の勝ちをもって上となし、七分を中とし、十を下とす」と ほどほどに勝つことを信条とし、大勝し驕ることなく 課題を見つけ次へ繋げていくやり方を継続しました。

タイプは違いますが、同じ時期に これほどの武将の2人が近隣だったのには、なにか巡り合わせのようなものを感じませんか?結局は、お互いに牽制しあってしまって、信長・秀吉・家康のようには歴史を変えられなかったのですから、そういった意味では残念でなりません(それでも、勇敢で 戦術に優れ ずば抜けた感性をもつ超一流の両者であることに間違いはありませんが…)。

信玄の家臣は『武田二十四将』が知られてますよね(絵で24人並んでますが、同一の時代というわけではないようです)。自分についてきてくれる領国の豪族を運営に参加させて連合軍を作り、調整型のリーダーとして新たな領地を獲得していきました。「人は石垣 人は城 人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と、人材を大事にした信玄ならではの名言もあります。

こうして北方へ勢力を拡大した信玄は、川中島の地で謙信と戦うことになるのでした。

第四次 川中島の戦い


5回行われた『川中島の戦い』の中で、最大の激戦である『第四次』を解説していきます。

信玄が『武田二十四将』の一人である伝説的軍師『山本勘助』に命じて、川中島の『海津城』を築城させたのが発端となりました。信越の国境を固めるため 到着した上杉軍の兵力は 13000人(善光寺には+5000名の残兵有り)。これに対し、武田軍の方は20000人。普通に戦えば武田軍の圧勝になるのでしょうが、そうはならない読み合いがここから始まります。
川中島の戦い
川中島にやってきた謙信は、『海津城』目前の『妻女山』に 陣を構えます。一方、甲斐を出発した武田軍本陣は『茶臼山』に進軍、海津城とで謙信を挟み込む布陣を形成させました。ただ、もっと広域的に見ると、善光寺には5000の上杉軍が控えているので、逆に信玄自身が挟まれているとも言えるのですが…。にらみ合いが続く中、行き詰った前線を嫌った信玄は、築いて間もない海津城へと移動。そこでも、やはり両者とも手を出せず、膠着状態が続きます。

海津城内では、武田の重臣たちが 士気の低下を恐れ 決戦を主張。だが、謙信の強さを知る信玄は慎重な姿勢を崩さず、軍師 山本勘助に上杉軍攻略の作戦立案を指示します。そこで提言されたのが、あの『啄木鳥(きつつき)戦法』ですね。

啄木鳥(きつつき)戦法


◎ 作戦内容
 ・武田軍を、本隊8000と 別働隊12000に分ける。
 ・本隊は平地で布陣を敷いて待ち伏せ。
 ・妻女山の背後から別働隊が攻撃を仕掛ける。
 ・戦闘で山を下る上杉軍を本隊とともに挟撃。
啄木鳥の餌をとる時の習性である『木の反対側をつついて穴から出てきたところを食らう』様子から命名されています。

深夜、武田本隊は海津城を出発、別働隊は妻女山襲撃へと向かいます。早朝、別働隊が奇襲をかけたところ、なんと その妻女山に上杉軍は居ません?!?謙信は、海津城の飯を炊く煙がいつもより多いのを見て「攻撃してくる(しかも、挟み撃ちにしてくる)」ことを先読みし、物音をたてずに下山 武田本隊へ着々と近づいていたのでした。

朝8時頃、深い霧がはれると、居るはずのない上杉軍が目の前に現れ、武田軍は動揺します。しかも、武田本陣は8000ですから、兵力も逆転されてしまっています。急いで『鶴翼の陣』を作るも『車懸の陣』で猛攻を仕掛け短期決着を狙う上杉軍の攻撃により、信玄の弟 や 山本勘助 など多くの武将を討死させてしまいました。謙信と信玄の一騎打ちがあったのも、この時だと言われていますね。
川中島の戦い
10時頃、妻女山から急ぎ降りてきた武田別動隊が到着し、不利な状態になった上杉勢は越後へ引き上げていきます。この戦いでの死者は、上杉軍3400、武田軍4600。全体の8割以上が死傷者となるなど、互いに多くの犠牲者を出す戦いとなってしまいました。

武田武田武田武田武田上杉上杉上杉

勝敗については、まぁ引き分けでしょうね。川中島を手に入れたという意味では信玄なのかもしれませんが、相手家臣を討ち取り大きな損害を与え その後の侵攻を食い止めた謙信の目標も達成しているわけですし…。

事後


『第五次』は にらみ合い程度で終わり、それ以降、川中島での両者の戦いは起こりませんでした。

信玄は亡くなる直前 嫡男に「困ったら謙信を頼りにしなさい」との、生涯のライバルを高く評価した遺言を残しています。敵対していた謙信のことを 合戦を通じて深く信頼し「似た者同士」と感じていたのかもしれません。

謙信は信玄をかなり嫌っていましたが やはり友情めいたものが芽生えていたようで、食事中に信玄の死を聞いた途端 箸を落として号泣したといいます。「信玄亡き今が、武田攻めのチャンス」と言う家臣の意見も「そのような大人げないことはしない」と拒否しました。

その5年後、脳卒中で謙信も亡くなります。食事は質素だったのですが、長年の飲酒によるアルコール依存症(ストレスがあったのかな…)。つまみが味噌・塩・梅干だったということで、塩分の過剰摂取による高血圧が突然の死を呼び寄せてしまったようです。

信玄も謙信も、結局天下は取れませんでした。お互いに出会わず、この川中島の月日が無ければ「歴史はまた違ったものになったんだろうな」と思ったりします…。
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